今日のKオケの練習は迷わずに行けた。ためしに高速を使ったら、15分ほど時間が縮まったが、料金は¥950なり。これを妥当を見るか高いとみるか?
さて、本番指揮者のS氏が登場。第九の1楽章と2楽章を通した。それから各楽章を細かくみていく。それがなかなかハードで。へとへとになり、あと少しで練習が終わるという時間になって、ダメ押しのごとく4楽章を通した。ただでさえ、昨日の草取りの後遺症で肩が痛いのに、もう最後は体力が切れてボロボロ。(>_<) ま、そんなのは日にち薬だけどね。
さてさて、今日はS氏の初来団ということで(第九の練習においてという意味。Kオケは過去に何度もS氏の棒で演奏会をやっている)、練習の合間に第九の背景やベートーベンの人柄についてのレクチャーがたっぷり入った。
作曲家といえども、生きている間は普通の人。(むしろ変態の森の住人か?/笑)人間関係でもめたり、政治の行方に関心を持ち、あやしい雲行きに心を痛めたりする。
ベートーベンが甥っ子のカールとうまくいかなかった話は比較的有名なので知っていたが、共和党員だったとは知らなかった。政治の話が好きなドイツ人の例にもれなく、彼も政治的見解をしっかり持っていて、共和党員だったという。ウィーンのカフェで、一番奥の席を陣取り、新聞に隠して当時禁止されていた本(たぶん当時の政権に批判的なものだろう)を読んでいたという話もあるぐらいだ。
と、これは前ふりで、一番ツボに来たのは、ベートーベンは第九を書くことで(特に4楽章に合唱を入れ、シラーの詩を歌わせることで)世の中には音楽よりも大切なものがあると宣言してしまったのだという指摘。そのため、第九には交響曲をぶち壊したという評価、新しい可能性を開いたのだという評価の両方があるらしい。
これにはなーるほど、と思った。音楽家が自ら音楽を至高の場所から引きずり下ろしてしまったとは。
たしかに、4楽章の冒頭では1~3楽章のテーマを引っ張り出し、いちいちそれを否定している。それらは先輩音楽家から受け継ぎ、ベートーベン自身も価値を置いてきた音楽という芸術だ。それをすべて否定した後に登場するのが「歓喜の歌」。
和音やら旋律やらを通じて訴えるのはまどろっこしいから、いっそ言葉で友愛を語ってしまえ、ということなのかもしれない。それほどまでに、ベートーベン御大は胸のうちに切羽詰った思いを抱えていたのかもしれない。
ちょっと違うかもしれないけど、J・レノンが「マザー」(だったと思うけど)という曲の中で音楽もビートルズも否定してた。彼にとってそのとき一番大切だったのはヨーコとの生活とそれが象徴する愛だったのかな。そして彼は社会運動とも関わりを持つようになって、ついには消されてしまうのだけど。
次に「へぇ」と目からウロコだったのが、「2楽章は戦いの音楽である」という話。2楽章はテンポの微妙なゆれが許されない音楽だという。あくまでもメトロノームのごとく一定の速さで音を刻みつづけなくてはいけない。その様はまるで軍隊の行進、あるいは休むことなく動く工場のピストンや機械類。なのだそうだ。
こんな解釈は初めて聞いた。が、妙に納得した。これまでただのスケルツォだと思っていたのに。
同じ曲でも指揮者によって、ずい分とカラーが変わるもんだ。
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