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びおら弾きの微妙にズレた日々

持っていかれたのは体力だけじゃなかった

先日の日曜日はブルックナー練習の、指揮者の初来団でありました。
皆さん気合を入れすぎて、抜け殻になってお帰りになったようです。
管理人の顔色が悪かったとしたら、それは抜け殻だからというより、うまい人達の足を引っ張るわけにいかないと、弾けないなりに必死でついていって燃え尽きたためだと思われます。

さてさて枕はここまで。



ブルックナーの8番(ハース版)といえば、それはそれは長くて、手持ちのCDでは71分。これを一通り弾いてさらに細かく見てもらうので、体力消耗を見越し、ドリンク剤をチャージして挑んだ。結果的には大正解だった。家まで無事に運転して帰るのがやっとという感じで。
バリバリ鳴らす管楽器の人たちが燃え尽きるのはわかるが、どうして弦まで?

マーラーの弟子であったブルーノ・ワルターが「ブルックナーは神を見たが、マーラーは神を見ようとした」という言葉を残しているように、ブルックナーの音楽には神々しさが宿っている。練習中、指揮者に何度も「下から持ち上げるのではなく、上からゆったりと音を出す」という趣旨の指摘を頂いたが、神様目線で、ということなのだろう。
旋律を複雑に発展させ、絡み合わせてゆくブラームスなどに慣れていると、ブルックナーの音楽の作りは独特に思える。複雑なリズムの絡み合いを避け、音色の変化を積み上げることで、まるで石を組んで聖堂を組み上げるかのごとく、壮大な音の殿堂を組み上げる。

いや、石組みというよりも、卑近な例で恐縮だけども、レゴブロックを連想した。色違いのパーツが何種類か揃っているレゴセットを思い浮かべてみてほしい。しかも本物の石並みに重くて大きなレゴ。ブロックの色は調性を、パーツの形はモチーフに相当する。聖堂を組み立てるためにレゴの設計図を書き残した設計者がブルックナーだとすると、演奏者は、設計図に従って黙々と組立作業をする聖なる下僕。神様はせせこましいこと、トリッキーなことを好まないが、全力投球を要求する。どんな楽器を担当しているかは関係なく、全員が一体となって神聖な作業に没頭することをを要求する。開始から一時間強、聖堂が完成する頃には下僕はみな、精根尽き果ている模様。

そんなわけで、練習後の某講堂には灰になった人多数。
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