さてさて、あれほど心配された長久手フィルハーモニーの演奏会、マーラー交響曲第2番「復活」の出来栄えがどうだったかというと、結果的には成功と言ってよいと思う。
5楽章のラストで指揮者が音楽の神様を召喚しているさまはしっかり見届けたし、合唱隊が「化けた」のがはっきりわかって、素直に「すげー」と思った。なにしろゲネプロの時の2倍の声量と迫力。ソリストのお姉様がたの素晴らしさは、リハの時点で明らかにされていたので、本番はただうっとり聞き入っていただけだが、合唱が入った途端、まるでセーラームーンがプリンセス・セレニティの姿を現した時と同じくらいの衝撃があった。
一方で、演奏しながら感動がこみあげてきて思わず涙が……という感想をあちこちで見る中、自分的にはただ必死に音を間違えないよう、入りを間違えないよう弾くので精一杯で、演奏会の最中も直後も感動を感じるどころではなく、音楽の神様は頭の上を通り過ぎて行ってしまったように感じていた。
数日後、スタッフの心配りで、出来たてほやほやの録音が配信されてきて、家事をしながらではあるが、ひとりの時間にゆっくりと聞くことができた。客観的に聞くといろいろ新しい発見がある。
第一印象は、一楽章の冒頭で「コントラバス軍団がやっと本気を出した」。これまでのズレっぷり(失礼!)は演技だったのかと思わせるくらい、本番はまとまっていた。リアルタイムでも、これは気がついていて、自分も本気を出さねば、と気持ちが引き締まった。
第二印象は、我らがビオラーずの音。マーラーはビオラにも時々美味しい旋律を振ってくれて、ビオラ的にもそれはよくわかっていて、「ここはきちんと弾かなきゃ」と頑張っており、実際に頑張っている音はするのだが、悲しいかな、メトロノームに合わせて教則本をやっている風にしか聞こえない。言い換えれば味がなさすぎる…_| ̄|○ 録音と知りながら、お願い、もう少し揺れて。と何度心の中でつぶやいたか。正しいリズムとテンポで弾くのは最低限のレベルだったといまさらのように気がつく。具体的に言うと、三楽章の中ほどに登場する無窮動風のビオラのメロディ。あそこは、リズムを正確に取るため、前打音はなるべく入れないようにしていたが、入れてわざと不安定にするのが正解だった。
結局、交響曲とは巨大な生き物なのだ。呼吸があるのはもちろん、細やかな感情や激しい衝動を持っている。それをどう操るかは、最終的には指揮者の裁量だけれども、奏者自身が自分の中に、音楽の持つ感情を取り込んでいなければ良い演奏はできない。今回は指揮者の力で、なんとかそれらしく見せることができたけれど、本来は演奏者それぞれが楽曲の中に踏み込む力を持たないといけないなと感じた次第。
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COMMENT
無題
7ヶ月にわたりVaと木管に挟まれていた身として一言申し上げますと、3楽章の例のメロディーは、前日まで制御不能だったものが本番でやっと思ったとおりにテンポを制御できるようになった(つまり音楽的な表現をつけるためのスタートラインに立てた)というのが真相のように思います。
前日まではVcFgの分散和音に寄り添うでも木管の旋律に寄り添うでもなく、かといって何か音楽的な意志が見受けられるわけでもなく、ただ指の動くままに拍が進んでいく印象に聴こえました。
(かといってどのパートが安定していた訳でもないので偉そうなことを言える立場ではありませんが。)
某先生のお言葉をお借りすれば、あと一ヶ月早くこれが出来ていればもっと素晴らしい世界に行けたのに、というわけです。
個々の奏者の表現の追求なくして良い演奏が生まれないことは完全に同意ですが、個々の奏者の地に足つけた土台固めなくして表現の追求は成し得なさそうだと、自戒を込めて思ったこの度の演奏会でした。
突然のコメント失礼しました。貴ブログにそぐわない内容でしたらお手数ですが削除いただけると幸いです。
Re:無題
>本番でやっと思ったとおりにテンポを制御できるようになった(つまり音楽的な表現をつけるためのスタートラインに立てた)というのが真相
実際にその通りだと思いますし、奏者的には「なんとか頑張った」と言いたいところですが、お客様に聞いてもらうには申し訳ないレベルだったなあと反省しているところです。
>個々の奏者の地に足つけた土台固めなくして表現の追求は成し得なさそうだと、自戒を込めて思ったこの度の演奏会でした。
リズムやテンポをきっちりコントロールする技術と、音楽的表現にかかわる技術は、車の両輪のようなものだと私は思っています。両方とも同じように大切なのですが習得の仕方が違うので、意識して両方を学んでいかなくてはならないという。
音のコントロールができるようになったから、次は表現方法を、と思うのは自然な流れですが、逆に「こういう表現がしたい」からそのように指が動くようにする、という練習の仕方も充分アリだと思います。
いずれにしても、「このように演奏したい/するべき」と考えられるようになるためには、そのための訓練や経験が必要で、今のビオラパートに足りないのは、まさに、どんな表現が求められているのかを考える作業なのだと、録音を聞いて痛感したところです。