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びおら弾きの微妙にズレた日々

大地とともに生きる人々

市内の文化センターで自主上映会があり、なんとなく興味を惹かれたので見に行ってきた。

東ティモールに生きる人々を描いたドキュメンタリー映画「canta! timor」→

東ティモールというのは、インドネシアの隣国で長らくポルトガルの植民地であり、ポルトガルが手を引いたのと同時に独立するはずだったのがインドネシアから激しい侵攻を受けて実質的に支配されてしまった地域だ。その後完全に独立するまで24年の歳月がかかり、国民の3分の1以上の命が失われた。さらに国際世論がインドネシアを非難する中、日本とアメリカは依然としてインドネシアを支援し続けた。また、紛争が続く間、インドネシアは巧みに情報操作して、虐殺ができるだけ外の世界に漏れないようにしてきた。このドキュメンタリーも、取材には日テレのスタッフが同行して、一度はテレビ放映されるはずだったのが中止になったという。これが予備知識。

その他映画に関する詳細は公式サイトに飛べばわかるので省略。東ティモール紛争についてもwikiに詳しく載っているので、ここでは詳しく語らない。
このドキュメンタリー映画は、政治的なことにはほとんど触れず、ただ、現地の人々の様子を写し、歌い踊る様子を写し、インタビューの様子を写すことで成り立っている。だから、多少建前としての言説はあるかもしれないが、東ティモールの人々の素の振る舞いを見ることができる。

彼らは長く先の見えない闘いを闘いぬき、普通に考えたら取り返しの付かないほどの大きな痛手を追っている。だが、敵であるはずのインドネシア軍隊に対して怒りも復讐心も持っていないという。あるのは大切な人を失った悲しみだけ。なぜ彼らは怒りを持たないのか。そんなのは建前だけじゃないのか。

その疑問は、上映後の監督のトークを聞いているうちに消えた。東ティモールの人々の考えでは、心のなかに怒りや不安など、自然な気の流れを阻害する要因があると、体の傷も癒えないという。しかるべき治療をしたのに痛みや具合の悪さが残る場合は、心因性だと判断され、瞑想をすることになるそうだ。そうしてマイナスの感情を浄化する。つまり怒りを持たないのは何より自分の健康のためだったりする。そしてよく笑うし、それは神様のためでもある。神様はみんなが楽しく暮らしていると喜ぶ、という考えがある。

また、彼らは捕まえたインドネシア軍捕虜を決していたぶったり殺したりしなかった。ただ、自分たちがなぜ戦っているのかを滔々と語って聞かせてから解放した。すると解放された兵士はどうなるか。後に東ティモールのシンパになったり、時にはスパイになってくれることもあったという。こうして敵の中に味方を増やしてゆくという賢さも彼らは持ち合わせていた。

そんな彼らの生き方を根底で支えているもの、それは大地とのつながりである。人はみんな大地の子であり、「人類みな兄弟」を地で行ってる。これも監督のトークで出てきた話だが、東ティモールで使われるティトン語には、「男の人」とか「女の人」を表す単語はなく、男性は兄か弟、女性は姉か妹に分類されるという。また、「あなた」という単語と「わたしたち」という単語が同一の言葉であるとか。つまり、「あなたはわたしたちの一部、人類みな兄弟」という考えが根底にあるわけだ。
彼らは、輪になり大地を踏みしめて踊るが、それは人と人、人と大地のつながりを強めるためのものであり、ただ楽しみのためにあるわけではない。

ここでちょっと不思議に思ったのがキリスト教との同居だ。ポルトガルが持ち込んだキリスト教というのは、他のあらゆる宗教を駆逐する性格を持っているのだが、ティモールではどうやらキリストの神様も大地の神様も互いにうまくやっているらしい。大地とのつながりを大切にする一方で教会でゴスペル風の歌も歌われているのだから。これは大地の神様の懐が限りなく深いということだろうか。……謎だ。

見れば見るほど、先日読んだばかりの「神去なあなあ日常」を思い出す。これは日本の山奥も奥、奈良と三重の県境あたりの村で林業に従事するハメになった青年の奮闘記なのだが、彼は神去村でリアルに山の神様とともに生きる人々を目の当たりにしてカルチャーショックを受けつつ、それをだんだんと受け入れてゆく。「人間は山の神様の土地を借りているだけ」という神去村の人々の価値観が、ティモールの人たちのそれと重なってしかたなかった。そして神去村の人々の価値観は、江戸時代あたりまでは日本のどこにもあったのだ。

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