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びおら弾きの微妙にズレた日々

リンゴと思いやり

先日、念願のiphoneを手に入れた。どのくらい念願だったかというと、iphone初号機が発売された頃から狙っていて、この数年、何度もケイタイからの乗り換えを企らんでは、さまざまな事情であきらめる、の繰り返しだった、という程度。

ブログの更新も読書も脇に置いて毎日遊んでいる。au版だということもあって、何もかもがサクサク動く。カメラの起動も速ければ、ブラウザの動きも速い。動画に至っては再生クオリティの高さに唖然とするばかり。噂通り、デザインはシンプルで使い勝手がいい。あらゆる動作が美しい。
便利で楽しい、オトナのためのオモチャだ。
(余計なお世話ですが、間違っても「ための」を抜かさないで下さい)

でもよく考えるとほんとはお釈迦様ならぬ、ジョブズ氏の手のひらで遊んでいるだけかもしれない。
だいたい、iphoneで使えるアプリ&データのほとんどがアップルストア経由でしか入手できない仕様になっているし、音楽など、すでに持っているデータをiphoneに投入するときでも必ずitunesが必要になる。
家人はiphoneのことを「アップル用集金端末」と呼んで嫌っているが、その意味するところは理解できる。
それでもあえて使ってみようと思ったのは、webの出現が人々の生活や考え方を変えてしまったのと同じく、この手の製品が新たに人々の生活を変える可能性があるのか、ということを考えてみたかったから。写真や音楽をストレスなく手軽に楽しめ、友人や、時には顔の知らない同好の士と共有もできる。「これは素敵」と思ったことをあっという間に世に広めることができるツールを手にしたとき、人は新たにクリエイティブなことを始めるのだろうか? 
あらかじめ断っておくけれど、答えは、まだない。

ubuntuデスクトップ

ところで、今使っているパソコンのメインOSはlinuxの中のUbuntu。デスクトップは上の通り。見た目の美しさや細かい動作に対するこだわりは、アップルに決して負けていないと思う。けれども、これがアップルとは対極の精神を持っているのだ。それはUbuntuという、アフリカ由来の言葉の中にすでに宿っている。

Ubuntu の意味をおおまかに訳せば、「他者への思いやり」です。別の翻訳なら以下のようになるでしょう。「あらゆる思いやりを共有する為の普遍的な繋がりを信じること」
―Ubuntu解説サイトより



linuxはオープンソース、つまり誰でもプログラムに改良を加えることができ、そうすることで無償で提供が可能になるOSだ。だから、世界中の人たちが利用できるような仕様になっている。たとえば文字コードにしても、ファイル形式にしても、多くの形式に対応しているので、Windowsで作った文書だろうが、Macで作った文書だろうが、平気で読み込める。Ubuntuに付属の音楽プレイヤーは、Media Playerで取り込んだ音楽だろうが、itunesで取り込んだ音楽だろうが、やはり「そんなの朝飯前」とばかりに取り込んで鳴らすことができる。実に懐が深い。mp3あるいはaacしか再生できないというiphoneとは正反対だ。

そしてもうひとつ、Ubuntuを動かすには(もちろん他の種類のlinuxでも)ある程度コンピュータとプログラムに関する知識が多少なりとも必要だ。プリンタの接続作業ひとつとっても、自力でコードを入力しなくてはいけない。面倒だけども、自力で細かい設定ができるし、コンピュータの中身が見えるというのは、安心感がある。
何も知らなくても直感的操作で動かせてしまうけれど、システムに関する部分は完全にブラックボックスに入ってしまっているiphoneとは、これまた大きく違う。iphoneはファイルの格納場所さえ見ることかできないのだが、それは面倒な作業はすべて機械に任せなさい、という意味であり、人はクリエイティブな作業に専念すればいい、という意味でもある。人の身体が何も考えなくても勝手に食物を消化し、血液が体内を循環するおかげで、人は頭を働かせることに意識を集中させられるのと同じかもしれない。

考え方はいろいろあるだろうけど、どちらのあり方がより自由かと問われたら、自分はubuntuだと答える。
たとえ、少数派であっても、みんなが当たり前に使っているソフトが使えなくても、viva! ubuntuなのだ。
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