「マーラープロジェクト名古屋」の演奏会の後半プログラムはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」より美味しいところを抜粋したもの。
有名な前奏曲のみならず、歌手と合唱団が登場して、本物の歌劇を再現。これがもう素晴らしい迫力だった。
前奏曲、最初の和音からして「トリスタン〜!」な響きで世界に引き込まれた。
「トリスタン」の内容については理解不能なんだけど音楽は綺麗なんだよなあと思いつつ聴き入っていたら、前奏曲が終わるあたりでトリスタン役とイゾルデ役の歌手がすくっと立ち上がり、互いの名前を呼び合った。その瞬間ステージの空気が変わって、鳥肌が立った。前奏曲のすべてはこの瞬間のためにあったのかと思うほど。
その後も、二人の絡みを中心に主要な場面を演じてゆくのだが、声の迫力は圧倒的で、オーケストラは場面の空気を盛り上げる黒子に徹しているように感じた。音楽が舞台の大道具や小道具の役割を果たしている。音楽が道具として効果を発揮するには、やはりこの歌劇全体を理解していないといけないから、技術面だけでなく、精神面で随分難しいだろうなと思った。
うん、精神面はちょっと難しい。
実は、逢い引き中の恋人同士が「愛に生きるために死のうではないか」と熱にうなされたように語り合うくだりは、歌詞だけ読んでいると「寝言も大概にしようよ」と突っ込みを入れたくなってたまらなかった。(>_<)
今の時代に生きていると、不倫だろうと許されぬ愛だろうと生きてなんぼのものでしょうとか、思ってしまうわけで、大仰なあの世礼賛に対して違和感を持ってしまう。
けれども、舞台や音楽という装置によって囲い込まれた別世界の中で語られると、まったく違和感がなくなってしまうところが不思議。
これは歌舞伎とよく似ているのかも知れない。非日常の空間の中で語られる非日常的な出来事はすんなり受け入れられる。目覚めながらにして見る夢のようなもの。
「トリスタンとイゾルデ」は平たく言えば、王族の姫と騎士の不倫物語で、このスタイルはアーサー王物語の時代から登場しているポピュラーな設定。フォーレやシェーンベルクが曲をつけた「ペリアスとメリザンド」も、物語としては王族の不倫もの(ただしこちらのテーマは滅び)。
ワーグナーはトリスタンとイゾルデの物語を至高の愛の物語にしたかったようだ。死を乗り越えてこそ結ばれる魂が存在するのだと(不倫という要素は死を呼び込むための踏み台?)。しかも、それが成就するのは「夜」の世界においてだということ。
詳細は省くけれど、トリスタンとイゾルデの会話には昼と夜のたとえが頻出し、昼=理性や意志、物質的なものが支配する世界、夜=無意識や情念の世界、物質的なくびきを越えた世界というふうに読み取れる。(一部パンフレットの受け売りです)
この歌劇が作られた時代が、フロイトやユングが活躍し「無意識」の世界が発見された時代と重なることを思うと、ワーグナーは当時の最新の思想を自分の作品に取り入れてみた、と考えてもよさそうだ。
……と思ったが、よく調べてみれば、フロイトが活躍したのは大ざっぱに勘定して、トリスタンが書かれた30年も後のことだ。ということは逆にワーグナーの音楽が時代を先取りしていたわけで、そうすると、この芸術家のセンスは尋常じゃない。
あと「あの世で真の愛が成就する」については、キリスト教の思想との関連も気になるところ。時間があればいつかそのうち……。
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