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びおら弾きの微妙にズレた日々

ブラームスの魂の行方

先日聞いてきた「ドイツ・レクイエム」について、演奏の印象とは別に、曲そのものについて考えたことをつらつら書いてみる。
音楽の師シューマンの死をきっかけに着手され、母の死で完成にこぎつけたというこの作品は、テーマが「神による救済」。
通常、レクイエムといえば、カトリック教会で行われる死者のためのミサで使われる典礼文に曲をつけたものになる。なので、歌詞の内容は決まっている。だが「ドイツ・レクイエム」は、聖書の中からブラームスが恣意的に歌詞を選んでいる。これには、ブラームスがフリーメーソンだったことも反映されているのだろう。

全7曲あるうち、第1曲の冒頭が「幸なるかな、悲しみを抱くものは、慰められんゆえに」で、ラストの第7曲の冒頭が「幸なるかな、死人のうち、主にあるて死ぬるもの」。なぜ「幸い」かというと、答えは第6曲、コリント人への手紙からの抜粋にある。「死んだものは永久に眠るのではなく、最後の審判の時に蘇るであろう」(大意)というところ。死は最終的なものではなく、復活の前段階というわけだ。これはどこかで聞いたような話だなあと思ったら、マーラーの交響曲第2番「復活」の5楽章がまさにそれだった。
生まれ出たものは、必ず滅びる。
滅びたものは、必ずよみがえる!
震えおののくのをやめよ!
生きることに備えるがよい!
          
ブラームスとマーラーは仲が良くなかった。というか、音楽的な考え方がまるで対立していた。ところが、死生観を扱うと意外にも似ている。二人とも非カトリック教徒であり(ただし、マーラーは結婚を機にユダヤ教→カトリックへと改宗)、「神」をキリスト教の神に限定しないもっと大きな存在だとみなしているところが興味深い。

それで、どちらの「復活」が琴線に響くかと言うと、自分的にはマーラーなのだ。学生の頃からブラームスの音楽に触れてきて、ブラームスのシンフォニーが好きであったにもかかわらず、マーラーの「復活」に近しさを感じる。

なぜだろう。現時点でひとつ思いつくのは、ブラームスがとても形式を重要視したということ。この「ドイツ・レクイエム」にしても、第4曲を中心に、前半と後半でシンメトリーな構成になるように作られている。音楽的には第6曲がいちばん盛り上がるし、終曲にふさわしくもあると思えるのだが、ブラームスは第1曲と呼応させる形で「幸なるかな」で始まる第7曲を置いて締めくくりとしている。(ちなみに第6曲と呼応する第2曲は、2番めにボリュームのある曲となっている)。

あたかも、不定形な感情を箱のなかにきちんと収めなくては気がすまないかのようだ。実際、この曲では、形式の網目の中に強い感情を編みむことに成功しており、だからこそ発表当時から高い評価を受けたのだと思われるが、あまりにきっちりと形式の中に収められてしまった楽曲には正直面白みがない。自分としては、形式の隙間からにじみ出る抑えきれない感情がブラームス最大の魅力だと思っているくらいだ。
その点、マーラーは形のない感情を形のないまま音楽にする術を持っていた。強烈なインパクトを持ち、直接的に心に食い込んでくる力を持っている。だが、それは形式の破壊にほからなず、ブラームスがとても嫌うものだった。

嫌悪の感情は時として、好意や嫉妬の裏返しとして表れることがある。あからさまな表現を嫌う人に限って、心のなかに制御しきれない強い感情を抱いていたりするものだ。ここから先は推測になるが、ブラームスはマーラーの音楽に接した時「なんだコイツは! こんな表現はズルい」と、嫉妬の念を抱いたかもしれない。「こんな手法が許されるのか、いや、許しちゃイカン」となって、マーラーがベートーベン賞に応募した「嘆きの歌」をこき下ろしたのかもしれない。ブラームスの魂が形式の網の目の奥深く、簡単には人の手が届かないところに匿われて身動きがとれなくなっていたのだとしたら、マーラーの赤裸々な音楽を許しがたく感じたとしても、全然不思議はないのだ。





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