映画なのにどうしてカテゴリが音楽かって?
そういう映画をみてきたんです。今池のシネマテークまで行ってきました。知るひとぞ知る、というアングラな映画館です。その昔、タルコフスキーの「サクリファイス」をここで観ました。
タイトルは「タッチ・ザ・サウンド」。つまり「音に触れる」ということ。
聴覚障害者であるパーカッション奏者・エヴリン・グレニーのドキュメンタリーです。
公式サイト→
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冒頭、NYの駅構内でスネアドラムを叩くところから始まる。
パワフルで、かつ切れ味のいい音だと感じた。聴衆の反応からすると、その音は高い丸天井に反射して、まるで天から音が降ってくるように聞こえているようだ。
映画館の座席では、残念ながらその音響効果を感じることはできなかったけど。
その後は、エヴリンの演奏と、インタビューと、世界各地を旅する映像が交互に現れながら進んでゆく。余計なナレーションはない。彼女の生みだす音、彼女の言葉、彼女が見た風景、それだけで構成されているドキュメンタリー。シンプルだけど膨大な情報を含む。ちょうど、よくTVでやっている教養系バラエティ番組の逆かな。(←凝っている割に内容が乏しい)
スコットランド出身の彼女は、世界の各地をまわって、音を出しては感じる旅をする。先に挙げたNYばかりでなく、ドイツのケルンでは廃屋となった工場でエレキギター奏者とセッションをしたり、さまざまなものを叩いてその響きを味わい、日本では和太鼓と共演し(剣玉まで楽器にしてしまうなんて、すごいぞ和太鼓のお兄さん)、飲み屋でライブ演奏をし(箸を使って空き瓶を叩いていたぞ!)、都市の喧騒に身を浸し、石庭で静寂の音に聴き入る。
彼女のパワーは、あらゆる音をまずは自分の身体で感じられることにあるのだろうと思う。たとえ不快な騒音であっても、まずは感じる。
そうすれば、必然的にこの世界が音に満ちていることがわかる。うるさくても美しくても、とにかく音があふれている。実際、世の中に存在するのは、心地よい音ばかりではない。
でも彼女にとっては音があること=生きていることだ。静寂すら、音の一部になる。無という音。楽器を習っていると、よく「休符も音楽の一部だよ」と言われることがある。それと同じなんだろう。
エブリンは、音について語るなかで「人それぞれに音の感じ方が違うし、みんなそれぞれの音を持っている。人は音なのだ」ということを言っていた。「音は物の表面で鳴っているのではなく、その奥にある」とも。彼女はきっと、魂を音の発生源として捕らえているんだろうな。
音は耳で聞くものでなく、体全体で感じるものなんだと、聴覚を失ったおかげではっきりと知ることができたエヴリンは、かえって幸いなのかもしれない。
耳で音を拾うことに慣れきった人間は、普通、「聴くとはなんぞや」という問いを発しないし、聴くことの本質や音のあり方について深く考えるチャンスが少ない。
だから、エヴリンが聴覚を失ったのは、ある意味、彼女が音楽家になるために必要なことだったのかもしれないとさえ思う。
もちろん、よい教師に恵まれたとはいえ、彼女が身体で音を聞き分けられるようになるためには、相当の努力が必要だったはずだ。そして彼女は今現在も音楽家であるための努力を怠っていない。それは彼女の手を見ればわかる。パワフルで、確実なビートを刻める、しっかりと筋肉のついた両腕。マリンバのマレットをはさむ指には、マメができた跡があるし、時にはテープが巻いてあったりする。(それも演奏が進むにつれてはがれてくる凄さ)
音を探して求めて表現して、彼女はどこへ行き着くのだろう。それとも彼女はずっと彼女自身でありつづけるために音を表現するのだろうか。きっと後者であるような気がする。
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