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びおら弾きの微妙にズレた日々

耳虫その後(メタモルフォーゼン)

耳虫退治をすべく、R.シュトラウスのメタモルフォーゼンをたっぷり聴く。
好きな曲なので、バージョンはとりあえず3つある。

1.カラヤン-ベルリンフィル(1969年)
2.カラヤン-ベルリンフィル(1980年)
3.プレヴィン-ウィーンフィル(1986年)
(あと、シノーポリのも聴いてみたいような恐いような…)
聞き比べてみると、面白いぐらいにベルリンフィルとウィーンフィルの音質の違いがわかる。
指揮者のせいもあるとして、ベルリンフィルは硬質なひびきで、石に例えるならダイヤモンド。
ウィーンフィルは情熱のこもった音で、柔らかくも激しくもあり、奏者の自己主張が強い気がする。それはこの曲に限らず、ブラームスなんか聴いてもそう思う。石に例えるとしたら、トルコ石とか翡翠など。
だから、この曲もウィーンフィル版を聴くと、かなり心に迫るものがある。シュトラウスの怨念みたいなものが押し寄せて来る。
逆にベルリンフィル版を聴く時は、注意しないと音楽に弾かれてしまう。音にみなぎる緊張が強すぎて、同調に失敗すると置いてきぼりを食うのだ。
ただし、うまく音の波に乗ることができると奈落の底へまっさかさま。
で、たまたま私の手元には1969年のと1980年のがあるわけだが、前者はかなりテンポが重く、ともすれば泥沼に足をとられながら歩いているイメージが浮かぶ。反対に後者は早めで非常に緊張感のある音がひびいている。さすがに11年もたてば、ずいぶん音楽のとらえ方が変わるものだ。

さて、曲そのものに話を移そう。
初めてこの曲を聴いたのは、学生オケを始めて間もない19歳の時だった。友人が「これ聴くといいよ」と気軽に渡してくれたカセットテープに入っていた。(彼は確信犯だったとあとでわかり、少々口惜しい思いをした)
私は実に素直に、何の予備知識もなく、そのテープを鳴らした。最初の1フレーズ目でいきなり頭を殴られたような気がした。その瞬間、これが失われた大切な何かを悼む曲だと確信した。
これが、ドイツの音楽的遺産を戦争で失った悲しみを表した曲なのだと知ったのはしばらく後のことだ。

それからというもの、この曲は特別である。23台の弦楽器が奏でる旋律は、互いに絡まり合ったり離れたり対立したり、まるで生き物みたいに動き回って、作曲者の感情の流れを伝えてくる。
この曲の演奏を生で聴いたことがあるが、曲が進むにつれて奏者が次第にヒートアップするのが手に取るようによく伝わってきた。葬送の曲という本来のテーマを超えて、ひたすら旋律を絡み合わせること、音楽そのものに夢中になっていくかのように見えた。
一時は、この曲が弾けたらもうこの世に思い残すことはないや、と考えたほどだ。

今聴いて思うのは、この曲が奏でる悲しみには甘さがつきまとっているということ。失ったものを思い出している時間は甘美だ。それが大切なものであればあるほど甘くなる。その分、現実に戻ったときには苦い思いをしなければならないのだが。
その、苦さを前提とした甘美さが見事に表現されている。
この曲に関する資料を探してネットをうろうろしていたら、「マーラーの9番は、愛するこの世を去らなくてはならない悲しみを表現しているのに対し、メタモルフォーゼンは、愛するものを失ってなお生きてゆかなくてはならない悲しみを表現している」というコメントを見つけた。
なるほど。
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