学生の時、シューマンの交響曲を弾いたことがある。第一番「春」である。
全楽章を通じて春を迎えた喜びにあふれたこの曲はとても好きであるし、実際にこの曲を弾く機会に恵まれたことはとてもラッキーだったと思う。
ところが耳の肥えた学生オケのメンバーたちは、あまりこの曲を評価していなかった。オーケストレーションが野暮ったいと思っていた。
確かに、この曲に限らず、シューマンの交響曲では主旋律を支えるべき伴奏が重厚すぎて、ともすると肝心の旋律が埋没してしまうことがあるし、弟子のブラームスのような計算し尽くされた巧妙さはない。
しかし、オーケストラの各パートが曲を理解し、鋭い感性と適正なバランスを保って演奏がなされた時、非常に繊細で美しく、シューマンにしか表し得ない世界が立ち上る。
それは交響曲だけでなく、ピアノ曲(そして恐らくは歌曲にも)当てはまる。
実際にピアノを学んだ人によると、シューマンのピアノ曲は譜面をなぞるだけでは形にならないのだそうである。曲を理解して弾いて、始めて弾きこなせるという。
あいにく手元にシューマンのピアノソナタはなかったが、ピアノ協奏曲があった。(彼が残したピアノ協奏曲は一つだけなので番号は振られていない。)交響曲第二番に魅せられたついでに聴いてみたら、これが素晴らしかったのである。
冒頭、序奏に引き続いてオーボエが主題を奏でる。いかにもシューマンらしい哀調を帯びていると思ったら、この主題はベートーベンの歌劇「フィデリオ」中の「フロレスタンのアリア」から採られたものであった。
少し話がそれるが、「フィデリオ」に登場するフロレスタンとは、無実の罪で投獄された男性であり、彼の妻、レオノーレが男装をしてフィデリオと名乗って彼を助けに来るという筋書きになっている。
シューマンは、ペンネームの一つとしてフロレスタンの名を使っていたから、主題として使われているフロレスタンのアリアには、彼自身が投影されていると考えることもできる。
さらにこの主題の中には「C-H-A-A(ドシララ)」という音の並びがあって、この部分は重要な動機として全楽章を通じて散りばめられている。
実はこの音の並びには、シューマンの妻であり、同時に優れたピアニストでもあったクララの名前が隠されているという。「C-H-A-A(ドシララ)」のうち、Hを経過音とみなし、Aの音をイタリア語読みのlaと読み替えるとClala(Clara→クララ)となるというからくりだ。
そう考えると、シューマンはこの曲にクララの名を散りばめているわけで、この曲を受け取った彼女が「わたしはもう王さまになったような気持ちがする」と言ったとしても充分頷ける。
話を曲そのものに戻そう。
フロレスタンのアリアが、形を変えつつピアノとオーケストラの間を言ったり来たりしながら一楽章は終わる。それはまるでピアノとオーケストラの語り合いそのものである。
第二楽章に移ると、曲調は穏やかになり、ピアノの音は、オーケストラの中にとけ込むような、それでいて存在感のある旋律を奏でる。やがて、第一楽章の主題がふと顔を出したかと思うと、曲は勢いづいてそのまま切れ目なく第三楽章に突入する。楽章の間に休止を入れないというこの手法は、ベートーベンの「運命」の第三楽章と第四楽章の間でも使われている。規模の違いはあれ、どちらも助走をつけて飛び立つ鳥のような印象を受ける。
第三楽章は春の到来を思わせる軽やかな喜びに溢れている。これを「天国への扉」と評する人もいるくらいだ。ピアノとオーケストラ(主に木管群とホルン)がいっそう情熱的に対話している。互いに音の流れを受け継ぎ合っているだけではなく、本当に対話しているように聞こえるのだ。これもあるいはシューマンとクララの語り合いを模しているのかもしれない。
こうして聴いては曲の背景を調べ、再び聴くという作業を繰り返す間に、どんどん曲の深みにはまりこんでいった。するとシューマンが音楽を通じて求めていた何かが見えるような気がしてきた。
その「何か」とは彼が憧れて止まなかった美しさの源で、しかも決して言葉で語られ得ないもの。すぐそこにあるのがわかっていながら触れることはかなわず、音楽によってしか語ることのできないもの。
シューマンは本当に天国への扉を見つけたのかもしれない。
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