昨日の演奏会、本気モードでシベリウス1番を弾いていて、4楽章の最後まできてふと思った。
曲の中で最も大切なテーマを再現する場所があるとする。その効果を高めるために前振り的な装飾がつくことがある。例えば、ミ~ファミミレ~ドレミレ……というメロディのテーマがあるとすると、その直前にドレミファソラシドレ、という音階がくっつくなど。そうすると坂道を駆け上がって見晴らしのいい頂上に出るような効果が期待できる。
シベ1の4楽章再現部、最も盛り上がる場面がこの作りになっていて、弦パートがユニゾンでこれを鳴らす。ベタすぎるほどのカッコ良さ。ところが、やたら臨時記号が多くて弾きづらい。たぶん、♯が5個つくロ長調の音階。
楽器というのは、♯や♭が増えるとそれだけ鳴りにくくなる。1つか2つなら割と開放的な響きがするが、調号が5つもつくと、正確な音程が取れていてもちょっと不安定で微妙に響きにくい音になる。だから不思議な気がした。一番声を大にして叫びたいはずのところで、どうしてシベリウスは手かせ足かせをはめるように♯をたくさんつけたのだろう。
またまた話は飛ぶが、2楽章のパート練習をコンマス氏に見てもらった時のこと。主旋律を弾くのにsul Dという指定があり、それはつまりどんなに高い音が出てきてもD線で弾け=ハイポジションで音を取れという意味。3rdポジション程度なら無問題だが、いったいどこまでハイポジが適用されるのか。コンマス氏いわく「ここは敢えて苦しそうな音色が要求されているのでは」とのご指摘。ほほう、とその場にいたビオラーずは納得して、曲想が変化するところまで、頑張って5thポジションまで使うことになった。ところが実際に弾いてみると……。さほど苦しい音色にはならなかったというオチ。いかにもビオラーずらしいけど、とにかく大事なのは「苦しそうな音色が要求されいている」ということ。歌いたいのに歌いきれないもどかしさ、みたいな。
そこでふと思った。シベリウスは大事なことほど、もにょって上手く言えなくなる性格ではないのかと。伝記を読んでみても、彼は人見知り傾向があった上、極度のあがり症だったそうで、そのためにプロのバイオリン奏者になれなかったとも言われているので、そんなに外れてはいないだろう。そして後世のクラシック愛好家にしてみれば、あがり症万歳だ。
まあ、シベリウスに限らず、歴史と地理を紐解いてみれば、フィンランド人が全体的にそういう傾向を持っているのだろうと想像はつく。何かしら心の叫びを表に出そうとするとそこには必ず障害があるとか、小声で叫ばなければいけない状況だったりとか。障害があればあるほど燃えあがる性質とか。まるで禁断の……(違)。
そうやって考えると、一番盛り上がる旋律がいくつもの臨時記号を背負って響きにくくなっているのは、シベリウスとしてはいかにも真っ当な表現なのだろう。
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