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びおら弾きの微妙にズレた日々

シューマンの音

来週の今頃は、最後のリハーサルを終えてぐったりしつつ、本番に備えて眠る支度をしているはずだと思う。
シューマンのラインと取り組んで3ヶ月。気づいたら本番が目の前だった。いつも目の前の楽譜にかじりつきで、じっくりと曲を味わう時間が少ないのが心残り。いやまだ、1週間あるから。


どうしても「ライン」、それにドボルザークのチェロコンチェルトが弾きたくて、1年間の休団予定が半年に縮まった。おかげでピアノの練習にもかーなーり支障が出ている。
無茶やってるな、という自覚はあるが、あんまり後悔はしてない。名曲として有名なチェロコンを弾いてみたい人は普通に多いだろうが、オーケストレーション的には二級品と言われ続けている「ライン」に、どうしてそこまでこだわるのか。
一言で言えば、ロベルト・シューマンは「生命の輝き」と「天国的な美しさ」を追い続けた芸術家だったからだと思う。子どものような柔らかな感性=sense of wonderを失わず、音楽によって美の世界=真実と善なるものから成る世界へ通じる扉を開けられると信じていた。

子どものような感性は、交響曲第一番「春」を聞くとよくわかる。生き生きとした躍動感、ところどころに現れる、はしゃぎすぎてバランスを失ってしまったり、カッコイイを通り越して滑稽になってしまう音楽。バーンスタインの録音は、そのへんの魅力をよく理解していて、わざとオケを振り回しては崩れそうな危うい感じを出していて、それがとてもいい。

天国的な美しさへの憧れは、ぶっちゃけた話、クララへの愛につきるのだが、それが一番良く現れているのがピアノ協奏曲。これは2楽章と3楽章がattacaで切れ目なく続いているのだが、そのさまは、2楽章でクララと対話しているうちに天国への扉が開いて神々しい光が入ってきた、ぐらいの美しさと躍動感がある。

「ライン」については、曲のタイトルこそ本人がつけたわけではないが、少なくとも仕事の都合でデュッセルドルフへ越してきたシューマンが、ライン川をめぐる風景に魅せられ、霊感を受けて作曲されたことが明らかになっている。
この曲が全体に明るい色調なのは、新しい土地との出会いに感銘を受けているシューマンの心象風景そのものだからで、シューマンは絵を書くようにその喜びを音楽として描いたのだろう。まるで子どもが旅先で出会うすべてに感動するかのように。
といっても、「ライン」は表題音楽や交響詩とも違う。風景を直接的に描こうとしたのではなく、風景から受けて喚起された感情を素材として作られた音楽だから。
感情を表現するのは難しい。上昇したり下降したり、晴れやかになったかと思えば醜くくすむ。その動きは実感できるが、なにぶん具体性がない。シューマンは微妙な感情の色合いを出そうとして、ついつい響きを重ねすぎてしまった、つまり主旋律に対して伴奏となる音を増やしすぎてしまったのではないだろうか。また、計画的に頂点へ向かい、予定調和のラストへ向かう音楽ではなく、日常生活において気分が微妙に移ろうがごとく、盛り上がるかと思えば「ちょっと待った」などと自在に曲調が移ろう音楽、悪く言えば掴みどころのない音楽になったのではないだろうか。

人によって好き嫌いはあるだろうけど、自分の場合は、シューマンを聞いて「これいい!」と思うたびに、心のしなやかさや柔らかさが戻ってくる気がする。もっとも、それはいいことばかりではなくて、美しいもの、楽しいものに敏感に反応できるということは、醜いもの、悲しいことに対しても反応しやすくなるわけだから、諸刃の剣というところか。
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