びおら弾きの微妙にズレた日々

世の中思うようになりませんが

久しぶりのジークフリート練習記であります。一カ月半ぶりのマエストロ来団で、二日かけて、1幕と2幕をそれぞれ、みっちりねっちりとさらいました。

というものの、自分は一日目しか出席できなかったので、1幕の様子しか報告できません。今回はマエストロのお言葉で印象に残ったことが2つ。思春期の表現とドラマ性。

まず1幕の内容をざっとおさらいしておくと、前作「ワルキューレ」でジークリンデに宿った子のジークフリートが、青年へと成長した姿で登場します。ジークリンデは息子を産み落としてすぐに亡くなっており、彼は自分の素性を知らぬまま、なんとニーベルング族のミーメのもとで育てられているところです。
クマを倒すほどのやんちゃ坊主ジークフリートは、現代でいえば男子高校生のお年頃で思春期、反抗期の真っただ中。いつものようにミーメと言い合いをしているうち、自分の出生を問いただし、事実を吐かせるにいたります。これが彼の旅の出発点なわけですね(ここまでが1場)。そこへタイミングを見計らったかのように、さすらい人に扮したヴォータンがミーメの前に現れ、指輪奪還計画が動き出します(これが2場)。いっぽうで、指輪のことなど露知らぬジークフリートは、親の形見の剣、ノートゥングを鍛えなおし、冒険の旅への準備を始めます(3場)。

マエストロが言われるには、ワーグナーはこの楽劇の中で思春期独特の憂いや反抗心を見事に描き出している、そんな音楽はそれまで存在しなかったといいます。
なるほど~と思いました。そもそも「子ども」の存在が認められたのが近代に入ってからです。それ以前は「子ども」=「大人の小型版」でした。ヨーロッパの近代以前の絵画を見るとよくわかるのですが、例えば生まれたばかりのキリストは、大人の体型をそのまま小さくした姿で描かれていたりします。リアル赤ん坊を知っているとものすごい違和感を感じますが、当時の子ども観はそういう風だったわけです。もちろん成長の途上で現れる反抗期という現象は経験的に知られていたでしょうが、改めて芸術で表現するようなものではなかったと思われます。
今の日本なら、思春期特有のあれこれは「中二病」と命名されて世間に周知されていますし、子どもが大人へと成長するための重要なポイントだともみなされていますが、当時はまだ、思春期という考え方すら新しかったのではないでしょうか。

もうひとつ、マエストロが指摘されたのは、独特のドラマチックな描写力。3場は、ジークフリートが剣を鍛えなおす場面が延々と続くのですが、絵的には、動きが少なくてあまり面白くないです。しかし、コミカルなぐらいに大げさな音楽がつくことで、ものすごく盛り上がる。親の形見であり特別な力を宿した英雄の剣、ノートゥングのパワーとそれを鍛えなおすジークフリートの底知れぬ力が、余すところなく音楽で表現されています。
譜面で見ると、同じような音形が少しずつ形を変えながら延々と続くし、アンビル(鉄床)とか打楽器が入って「これやりすぎじゃね?」と思える箇所もあるのですが、全体として聞くと、ものすごい効果が出るのですね。こういうところがシンフォニーとは違う面白さです。間近で見ると濃すぎる舞台化粧も、客席から見るとちょうど良いのと似ているかもしれません。
剣を鍛える場面、演奏する側は真面目にやると、かなーり体力を消耗します。鍛冶屋さん大変。



さて、ここから先は私事になりますし、先日の記事でも書いたのですが、年度替わりを機に新しい仕事に就きました。充実した日々を送っているのはよいのですが、なにしろ土日は稼ぎ時というお仕事なので、練習日に合わせて休みを取るのが至難の業。なら、最初からそんな仕事に応募するなという話ですが、まあ、家庭の事情がいろいろあって、そこは避けられず。

幸い(?)これまでの8カ月、地道に練習を続けてきた積み重ねがあるので、本番まであと数回しか参加できないとは思いますが、自宅練習でどうにかカバーできるようにしてみます。あと、本番と前日リハは何があっても休み取ります。他にもここには書けない事情もあって、地味にキツイ道ですが、本番までなんとか持ちこたえようと思います。