ということで、「神々の黄昏」練習記もいよいよ最終回となり、本番の記録を書くのみとなりました。
しかし、オペラの本番というのは、オーケストラに加え、歌手陣、合唱団、演出・美術チーム、舞台スタッフ、その他もろもろの人たちの共同作業によって成り立っています。なので、どこにどうスポットをあてて書いたらいいものか色々迷いまして、結局は時系列に落ち着きました。
前日リハーサル
なにしろ大掛かりな舞台だ。前日の拘束時間は、朝9時から夜の9時半(予定)まで。
団長いわく「舞台セットが完成するまで帰しません」(>_<)
リハーサルは10時ごろから夕方6時くらいまで。ハープ6台、歌手、合唱団等全員揃ったところで、まずは全曲通し。それからピンポイントで返し練習。
通すだけで6時間かかる(休憩込み)が、恐ろしいことに先週同様、体力はちゃんともつ(ちなみに譜面は全部で96ページ)。だがしかし、この時点で自分的ダメ出しポイントの多さに凹む。指周りが難しいところ、限界を超えて速いところはとうに諦めているが、曲の作りがいまだによくわかっていない箇所(家で聞いているときはわかったつもりになっているが、合奏になると混乱を来す箇所)が結構あったことに衝撃。まんべんなく練習したつもりでも、すべての練習に出られたわけではないし、どうしても練習回数の少ない箇所はあり、そういう手薄なところが2幕に顕著で冷や汗だらけ。もともと2幕はドラマが劇的に進行するパートでもあり、めんどくさい譜割り満載。付け焼き刃でもなんでもいいから、やばい場所だけでも譜面を読み直して対策はする。
リハのあとは、お楽しみ(?)舞台セット作りのお手伝い。オケ女子チームのお仕事は、本番で使用するおよそ80本の譜面台に譜面灯をセットし飾りをつけること。本数が多い上、細かい作業が必要なのでかなり面倒ではあるが、今年で4回目という慣れと、数のパワーで予定より早く終了。あと「バラシの優しさ」というパワーワードに遭遇。解体するときも時間との勝負ですからね。組み立てる時にひと手間かけるだけで、舞台を片付ける時のスピードが違ってくるという話。
当日ゲネプロ
この日も朝早くから集まり、舞台セットの確認が終わった10時半ごろからゲネプロ。ふつう、ゲネプロといえば、本番直前の通し練習なのだが、さすがに6時間かかる曲を通すわけにはいかないので、進行上重要なポイントをさくっと通すだけ。それもオケのためではなく、舞台の動き(歌手や合唱隊の出入りや動き、バンダの聞こえ具合、照明の動き、字幕の動作など)を確認するための部分的な通し。
自分的には、席からどれだけ指揮者やまわりが見えるかが一番の懸案事項で、というのも昨年の席は本当に前が見えず、例えて言うならフロントガラスが曇ったままの車を運転しているようなものだったので、今年はあえて最後尾のプルートにしてもらい、予定では内側に入る(=チェロ軍団の脇にお邪魔する)はずが、舞台セットの都合で、外側一列の最後尾に並ぶことになってしまった。後ろには誰もいません、指揮者まで遠い、バイオリンどころか同じパートのビオラの音すら遠い。トッププルートが名古屋の栄や名駅だとすると、自分の席は守山区。しかし、幸いなことに指揮者の姿は昨年よりもよく見える。さらにさらに、字幕と中央ステージの様子、さらには合唱団まで見えてしまう(嬉!) ここはひとつ、東谷山から名古屋セントラルタワーズを見るつもりで(地元ネタで失礼しました)頑張ろうかと。
休憩中は、楽屋ロビーに置いてあった皆様からの差し入れを美味しくいただき、エネルギー切れ対策もバッチリ。お昼はうっかり食べすぎて眠くならないよう、サンドイッチ(ただし肉入り)で軽く済ませ、ギリギリまで小難しい譜面とにらみ合う。とはいえ、一人でにらめっこしていたわけでなく、同じパートの人たちと半ばグチのこぼし合いみたいにして「もーここむずかしいよねーどうしよう」とか「指が5本では足りない、小指があと5ミリ長ければ」とか言い合えたのが、精神的に大きな救いだった。
いよいよ本番
あっという間に開場時間、そして開演が近づいてきて、舞台袖でソワソワしていると、開演5分前を告げるファンファーレが聞こえてきた。開演前のチャイムの代わりで、ラインゴールドからずっと続いているが、カミタソのファンファーレはことさらカッコいいと思う。金管の人たちが羨ましい瞬間でもある。
ゾロゾロ舞台に上がると、予想通り大勢のお客様。遠方から足を運んで下さっている方も多い。でも、強い緊張感に襲われることはなく「これがカミタソを弾く最後のチャンスだなあ」くらいの感覚で席についた。我らがコンマス、続いてマエストロが入場すると舞台は完全に暗転。数秒後にじわじわ明るくなる。これは緞帳が上がるのと同じ。神々の終末と世界の再生を告げる物語へようこそ。
そこから後は、オケも歌手も合唱団も物語の語り部となり、ひたすらドラマを紡ぐのみ。俳優が台本の台詞を語るように、音でドラマを紡いでゆく。うっかりカウントミスをしないよう、また、途中で迷子になったまま戻れなくなることのないよう、緊張の糸は張り続けていたが、その一方で字幕や中央ステージの様子をちらりと見ては楽しむ余裕もあり、舞台全体がひとつの生き物みたいに動いているなあと感じていた。そのことをいちばん顕著に感じたのが、ジークフリートの葬送行進曲。パウゼ(休符)のところで、マエストロの棒がほとんど止まるんですよ。もちろんカウントは生きている。それを奏者全員がちゃんと共有している。だから再び棒が動き出したときにしかるべきタイミングで音が鳴る。カウントだけでなく、ニュアンスもちゃんと共有できているから、どのように音量を落としてゆくか、またテンポ感をどうするか、も自然に合わせることができる。結果としてものすごい熱量と英雄の死にふさわしい重さを持った葬送行進曲が生まれた。もうひとつ印象的なのが、ブリュンヒルデの自己犠牲の場面。弦楽器が3連符のアルペジオで伴奏をつける箇所があって、実は本番がいちばん遅いテンポだった。というのも、ブリュンヒルデの歌が非常に情感たっぷりで、伴奏もそれにあわせて歌いながらつける必要があったからで、それはもうマエストロの棒を見るまでもない。
その後、「指輪に触れるな!」と叫んだハーゲンが水底に飲み込まれてからは(この箇所も弦にとってはすごくイヤンなところ)もう怒涛のエンディングで、最後の1ページに到達したとき、不意に震えが来た。ついに体力が切れたのか、それなりに張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、予想もしなかった感慨が湧いてきたのか、原因は謎だがこんなことは第九でもブルックナーの8番でも経験したことがない(両者ともにハードな曲ではあるが)。いやはや驚いた。ヴァルハラとともに自分が焼け落ちるかと思った。
終わった瞬間に待ってましたとばかりの拍手。それからそそくさと舞台が暗転する。それでも続く拍手。しばらくたって舞台が明るくなると、今度は地鳴りのような拍手。すでに1幕ごとに熱い拍手をもらっていたから、演奏はうまくいってるんだと確信は持っていたが、聴いていただいた方々の熱量もこれまたすごい。良い舞台は演奏者と聴衆の両者で作り上げるものなのだと体感した。この瞬間があるから、私達は膨大な時間と手間暇をかけて音楽に挑戦することができる。無謀ともいえる挑戦に対して後悔を覚えなくてすむ。6時間ものステージにお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございます。(とりあえず今回はここまで。続きあります)
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