怒涛の三連休でした。「嘆きの歌」練習記 その7です。
愛知祝祭管の本番一週間前練習は土日連続。西へ南へ大移動で、練習会場にたどりつくまでがすでに一仕事。
マーラー最初期の「嘆きの歌」「花の章」「葬礼」は最後の仕上げの段階を迎え、ソリスト、合唱団、バンダ隊と合流して、本番の音に近くなってきた。
愛と死を語る青年マーラーの野心が立ち現れてきて、ますます面白い。
「嘆きの歌」
団員の間では、ボーイソプラノの声が素晴らしいと絶賛しきりで、自分としても耳を傾けたいところだったが、なにしろボーイソプラノ(第2部ではボーイアルト)が歌う「骨の笛」の部分は不思議な変拍子で、うっかり聴き惚れると落ちること必至なので、あえて聞かないように頑張った。
逆に、耳を傾ける余裕があったのは、へんてこりんなバンダ(場外オーケストラ)演奏で、どのくらいヘンかというと、本体のオケと違う調性、違う拍子で鳴っていて、両者が交わる気配がまったくないところ。もちろん内容的には意味があって、バンダ隊は過去のフラッシュバックや未来図を表しており、評論家的に言えば「斬新」とか「時代を先取りした」などと言われるのだが、リアルで聞くとあまりの異様な響きに作曲者の正気を疑うレベル。
作曲者の正気を疑うといえば、ビオラにあり得ない高音を弾かせるところもそうだ。1オクターブ下げて弾いても何ら問題がないように思える箇所でなぜかト音記号(ビオラの楽譜はデフォルトでハ音記号。ト音記号=高音&ハイポジションです)。でもよく見れば1stバイオリンもめちゃくちゃ高い音で細かい音を弾かされているし、ボーイソプラノ(骨の歌)でも、オクターブ以上の高音への跳躍がある(大変な難所です)。
「嘆きの歌」の世界観にどっぷり浸かるうちに、これらの音の理由がわかってきた気がする。マーラーは、この世のものでない何か、天国的な世界をあらわすために、通常の音楽ではあり得ない音の使い方をしたようだ(それを言い出したらベートーヴェンだってその通りなんだけど、時代が下っている分、マーラーの方がエグい)。やたらと調号の多いロ長調しかり、指が届かないような高音しかり。それならば、自分たちも天使的な何か(宗教画によくあるような、子どもの顔に羽が生えた、その他大勢的な天使)になったつもりで弾けばいいのかと思い至った。問題はいくら天上の存在になったつもりでも、ハイポジションの音程が正しくとれるわけではない、というところだけど。
「葬礼」
マエストロの解説によれば、この曲のタイトルが意味するのは「死という祀り」だという。「死」とはどういうものかマーラーなりに対峙して表現したものだと。だからこそ、後に交響曲第二番「復活」の第一楽章を飾ることになるわけで。
これが壮絶にカッコいい。マーラーの音楽は、極彩色の曼荼羅のような、不思議な色彩に満ちている。音符に色がついているわけではないけれど、転調してテンポがゆったりすると、それまで業火の中にいたような風景がふっと水辺の落ち着いた景色に変わったりするのだが、マーラーの曲だと、小さな切り替えが頻繁に起こって、それで色彩豊かな感じがする(ドボルザークも非常に色彩豊かなシンフォニーを書いたけれど、マーラーには破天荒さが加わる)。
また、オーケストラがマエストロの棒によくついてゆく。ついてゆくというよりは、すでに阿吽の呼吸かな。「そこは歌って」と言われればすぐに情感豊かに歌えるし、それがあまりに普通にできてしまうので、なんなの、このオケは?と思う。
「花の章」
これは、マエストロによればブルゴーニュワインだそうで。
ソロを奏でるトランペットにすべてが託されているわけだけど、本番直前になって、その音色にがぜん色艶が表れてきて、耳を傾けていると、自然とほろ酔い加減に。
ちなみに「花の章」の原曲は愛を語るセレナーデです。アルマさんに聞かせたかどうかは不明ですが。
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