平和の実感を得るために「ショーとしての戦争」が繰り広げられる世界で、キルドレ――永遠に大人にならない子どもたち――が生の実感を得るために戦闘機で戦う話。
できれば原作を読み終えてからすぐに観たかったけれど、諸事情で長いお預けになってしまった。でもそれでよかったかもしれないと、観終わった後に思った。先入観がほどよく消えて。(完全に消えていないところがミソ)
公開当時、押井監督は確か、小難しい話はやめてエンタメ路線で作ったというようなことをのたまっていたはずだが、押井カラーは変わっていなかった。むしろ難解度120%増? タルコフスキーの域に達しかかっていると思う。言葉を読み解いて小説を楽しむように映像を読まなくてはいけない。
原作からして難解だったスカイクロラのシリーズを、押井監督がどう料理したかというと……。
まず、一人称的視点を完璧なまでに取り除いてしまった。原作はどれも「ぼく」を使った一人称語りで、しかも「ぼく」語りを巧妙に利用したトリックがあるにもかかわらず。(だからこそ、最初は「映像化は無理」と言われたのだが)
徹底的に客観的な視点で作った結果、台詞まわしだけでは非常にわかりにくい話になった。そのかわりに映像が語る。戦闘シーンはもちろん、登場人物のちょっとした仕草、クローズアップされる小物などなど。良く見てないとわかるものもわからなくなってしまう。とてもデリケートで静謐な世界。
次に込み入った原作の筋立てをバッサリ整理。人間関係をわかりやすくするためか、整備士のササクラが女性になっていた。愛称は「ママ」でも実体は肝っ玉母さん。この変更は確かにナイスだと思った。原作でもササクラはクサナギの保護者みたいな存在なので。
ティーチャは顔出しなし。黒豹印の戦闘機で登場するだけだが、キルドレがほとんどというパイロットの中で、唯一の「大人の男」。クサナギの子どもの父親だという噂はあるが、それは噂でしかない。「誰も彼を墜とすことはできない」とクサナギが言い切っているが、恐らく、子どもがつき当たる壁の役割を担っているのだと思う。
それから背景が違う! 原作を読んでいた時、頭の中にあったのはアメリカナイズされた日本の風景だったのに。ドライブインだって、荒野を走る一本道のわきにひっそり建っているようなのをイメージしてたのに。
映画になったら、すっかりヨーロッパの風景になっていた。ドライブインの周囲の田舎道、あれはフランスやイタリアの田舎だ。(ツール・ド・フランス等、ヨーロッパの自転車レースを見ているとよくわかる)ボーリング場のある町はポーランドだったし(AVAL○Nですか?/笑)
ああこれは、完全にカンヌを意識してるな、と思った。ああ残念。せめてアメリカをモデルにしてくれれば違和感なかったのにな……。
キルドレの秘密については原作ではうやむやなままだったが、映画では「キルドレリサイクル説」が選択されていた。キルドレは驚異的な生命力を持っている(←映画では触れられていない)ので、死亡したとされるクリタジンロウの体を再生させ、記憶を書き換えてカンナミユーイチを誕生させたのだとはっきり描かれている。カンナミが戦死すれば、同じ顔で違う名を持つ人間が新たにパイロットとして赴任してくるわけで。
その秘密に気が付かないふりをしている者もいるし、忘れさせられている者もいる。もし、その事実を認めたならば「殺してくれる?」の台詞もごく当然かもしれない。
薄ら寒い世界だ。クサナギでなくてもうんざりする。だからパイロットたちは飛ぶことに命を賭けられるのだろう。飛ぶことそのものが生きがいになるのだろう。映画ではそこまで描かれていなかったけど。
そんな世界だからこそ、最後のフライトでカンナミがつぶやく台詞がとてもいい具合に響いてきた。
いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる。
いつも通る道だからって、景色は同じじゃない。
それだけでは、いけないのか?
それだけでは、不満か?
それとも、
それだけのことだから、いけないのか。
それだけのこと。
それだけのことなのに……。
最後に、原作と違うあのラストは充分にアリだと思った。だって理由も整合性もある。原作があのあと、クサナギの過去を経て混沌とした人物入れ替えパズルに走ってしまうことを思えば、映画の処理はものすごく妥当じゃないのかな。
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