ひとつ前の記事の続き。
先日の泥縄事件で思ったのだが、案外と仕事というのは、ある日突然降ってきた課題に対し、手探りで対応策を考えながら力をつけてゆくものかもしれないと感じた。練習環境でいくらシミュレーションをやろうが、現場でないと獲得できないスキルがあるし、現場で「こういう情報が欲しかったのよ」と実感するところから新たな知識を吸収していくとかね。
例えば、いくら翻訳講座で添削を受けようと、それは世に出す文章ではなく、本人と講師の目にしか触れることがない。ある意味内輪のやりとりなので、訳文は「わたし、これだけ頑張りました」と言えるレベルであればそこそこ良い評価がもらえる。そこから先に進まなくてもOK。
しかし、仕事であれば、それがどんなにマイナーに印刷物であっても、公の目に触れるものだ。その仕上がりについては、まったく別次元の話になる。外国語を翻訳したものであろうとなかろうと、読む人にとっては同じようにごく普通の日本語なわけだから、評価は自然とシビアになる。訳出する時点でどれだけ頑張ろうが少しでも翻訳調臭さが出た文章はとても浮いて見えるし、悪目立ちする。練習と本番の違い、とでも言おうか。その溝の深さに気づいた時はもう愕然として、穴を掘って隠れたくなった。
それ以降、どうすれば最初から日本語で書かれたように見える文章として訳し上げることができるか、を意識するようになったけれど、この感覚は、実際に経験してみないとわからない気がする。
物語や小説の創作についても似たようなことを感じる。同人誌仲間で批評しあうことは、第三者のチェックが入らないまま一人で書き続けるよりは客観的な視点を持ててよいのだが、長く続けるうちにそれが身内の視線になってくる。定期的に新しい視線を取り入れないと、それこそ前述した「本人と講師」の関係に陥ってしまい、進化が難しくなる。
「世に出せる作品」というのは、文章・構成がうまいだけではまだ足りなくて、商品として成り立つかどうか、という視点が必要なのだろう。たとえば本屋で立ち読みした人に「これはお金を出して買ってもいい」と思わせる何か。実際にプロとして活動している作家なら、編集者の目に加えて読者からのフィードバックがあるから、何が必要なのか感覚的にわかりやすいだろうけど、ワナビーにはそれがなかなか捕まえられず暗中摸索を続ける例が多い。(←自分も含めて)
同人誌内で評価が高い作品と、出版できる作品は必ずしもイコールではなくて、そこにもやはり深い溝が横たわっている。
ただし。一つだけ確実なのは、とにかく書かなくちゃ何も始まらないということ。下手なナントカも数撃ちゃ当たる、ということわざを、数を撃たなきゃ当たらない、と読み替えるといい。プロの人が年間あたり書く原稿の量、デビューするまでにボツになった原稿の量を知れば、きっと穴を掘って隠れたくなる。というか、隠れているヒマがあれば書こうよ、てことになるから。
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