季節が進むにつれ、コロナの感染者数は徐々に減ってきた。待ちきれない人々が緊急事態宣言の前倒しの解除を求め、実際に実行されつつある。
ショッピングモールに少しずつ活気が戻ってきた。飲食店は限定解除。ただし店内は座席が減らされ、順番待ちの2mラインが引かれ、レジの前には透明なカーテンがかかっていて、コロナ禍は目に見える形でまだ居座っている。そのことにかえって安堵を覚えたり。
さて、前回取り上げた「#検察庁法改正案に抗議します」がどうなかったかといえば、とりあえず改正案決議は秋へと延期になったようだ。これで、SNSの動きが政局に影響を与える事例が増えた。もちろん、ただSNSで盛り上がるだけではここまで動かない。SNSの動向を見た与野党の議員や、関係者たちが動いた結果だ。
でも、この結果に勢いを得たツイッターの住人たちは引き続き改正法案の廃案を要求しているし、次にしれっと提出された国民投票法改正案に対しても「#国民投票法改正案に抗議します」で徹底抗戦している。種苗法改正についても反対や賛成の声を多く見かけるようになった。
情報や知識の共有、議論がさかんになるのは良いことだ。知らないからといって発言を控える必要はなく(意見を変えたなら変えたと言えばいい)、知識があるからといってマウントを取るのは浅はかなことだ。
自分は筋金入りの日和見主義なので、ハッシュタグをつけて意見を表明するなら、一通りの下調べをしてある程度確信が持ててからにする。もっとも、調べようと思っているうちにハッシュタグのタイミングを逃してしまったりするので、勢いよく意思表示できる人たちは勇気があるなあといつも思っている。
ただ、勇気はしばしば勇み足とか蛮勇につながることがあって、自分はそれをとても恐れている。たとえば、ある法案が審議にかけられるとして、それが悪法だという理解が広がり廃案要請のハッシュタグが何十万、何百万と投稿されたとする。すると今の政府なら「国民の理解が…」とか何とか言って審議を先送りにするかもしれない。でも、悪法だという理解が実は誤解で、本当は表面化していない問題を改善するためのものだったりして、審議の遅れにより恩恵を受け損ねる関係者が多数存在するケースもあるわけだ。
あるいは、ミスリードを装った権力によって数の力を悪用される可能性もある。
正直なところ、ハッシュタグの氾濫に怖さを感じている。数の力は暴力ともつながり、数の力は暴力にも等しい正邪関係ない力だから。数の力で不正を止めようとするとき、目的はどうであれ、暴力に頼っているのだという自覚はしておきたい。
さらにもう一歩突っ込んでおくと、コロナ対策で通常通りの仕事ができなくなり、自宅でエネルギーを持て余しているデキる人ほど、力を振るう機会を無意識のうちに探している気がするので、余計にハッシュタグのうねりが起きやすくなっているのだろう。
まあ、自分はコロナであろうとなかろうと日々の労働量は変わらずメンタルを削られ続けているので、ツイッターで暴れるほどの気力は残っていない。それもあって「#」の使用には消極的なのだろう。
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