昨日はまる一日フリーに使える休みだったので、何をしようか少し悩んだのち、名古屋市美術館で開催中の大エルミタージュ展へ行くことにした。
ロシアの王侯貴族が財に任せて名作を集めまくったコレクションだから、有名どころの、しかも古典的な絵が多い=退屈なのではないかと、正直言ってあまり期待はしていなかった。が、それはとんでもない誤解だったのだと思い知る。
会場に足を踏み入れたとたん、きらびやかさに圧倒された。平日にもかかわらず人でごった返しており、その熱気に負けない勢いで絵は「私、きれいでしょ」とばかりに眩しく自己主張していた。本物の絵には、どれだけ古くても生ならではの独特の迫力がある。
作品は時代によって分けられ、ルネサンス→バロック→ロココ→ロマン派→20世紀というふうに流れてゆくが、展示作品は宗教や神話をモチーフに、美しい色使いと端正な構図で描かれたものが多かった。あるいは貴人の肖像画。時代が下るにつれ風景画や市井の様子が描かれたものが増えてくるが、やはりそれらは世界が美しく存在した瞬間をキャンバスに残そうとしたような絵である。何気ない日常の一コマでもそれが愛おしいと思える瞬間。
逆に言えば、世界のあり方に疑問を呈したり鑑賞者の感性をあえて逆なでし、常識の枠を壊すような刺激的な作品はほとんどなく、例えば、マチスやピカソの絵もあるにはあるが、比較的おとなしくて一般の人たちが理解できるタイプの絵が展示されていた。
それがエルミタージュの趣味の良さであり、限界だったんだろうなと思いつつ、美しいものは無条件に良い物なのだと思わざるをえなかった。
本当に美しいものは見ているだけで癒される。時代的背景とか寓意とかそんなものはさておいて、良いものは良い。絵の前に立つと、山歩きで喉がかわいたところへ美味しい湧き水がすーっと体中に染みこんでゆくのとよく似た感じがする。
売店で図録を買って帰ろうかと思ったが、見本を手にとって見てやめた。印刷された絵画は生の輝きを失い、まるで干物のようになっていたからだ。個々の絵に関するうんちくを深めたいなら役に立つだろうけど、絵そのものを楽しんでいたいという向きにはちょっとばかり悲しいものがある。
とか言いながら、ポストカードや卓上カレンダーはしっかりおみやげとして買って帰ったんだけどね。
オラース・ヴェルネの「
死の天使」とかツボにはまりすぎて、目にした瞬間脳天に衝撃を受けた上、頭の中に「悲しきワルツ(byシベリウス)」が流れ始めるし、ダニエル・セーヘルスとトマス・ウィレボルツ・ボスハールトによる「
花飾りに囲まれた幼子キリストと洗礼者ヨハネ」は幼子たちが愛らしすぎて、また他の数多くの絵でも、幼いイエスの傍らには必ずと言っていいほど少し年上のヨハネがいて優しくイエスに手を差し伸べていたりするので、もう腐のスイッチが入りそうで自分でも失笑するしかなく。
……はっ。失礼しました
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