春めく陽気に誘われて、終了間際の愛知県美術館〈ゴッホとゴーギャン展〉を見てきた。
バルビゾン派~印象派という、同じ絵画の潮流に影響を受け、一時は共同生活をするまでに意気投合した二人だが、芸術家同士の宿命なのか、理想に彩られたはずの生活は8週間あまりしか続かず、しかも別れた後にゴッホが耳を切り落とす事件を起こすという、実に後味の悪い出来事もあって、結局二人は再会を果たすことがなかった。
しかし、二人は互いのことを芸術家として深くリスペクトしていた。それがわかるような展示構成だった。
さらっと見ると、ゴッホは線の人、ゴーギャンは面の人、という具合に分類できそうだが、二人の違いはもっと根深い。
ゴッホ《ゴーギャンの椅子》
This is a chair.(これはイスです)
でも、ただのイスではない。短い共同生活の時期にゴーギャンが使っていたイスである。
ゴッホはゴーギャン本人を描くのではなく、ゴーギャンを象徴する本とろうそくの明かりをイスに乗せて描いた。これはある意味ゴーギャンの肖像画なのだ。
ゴッホは目の前にあるものや人や風景をあるがままに描こうとした。ただ、それは必ずしも写真のように本物と寸分違わぬものをキャンバスに移すことではなく、ものや景色の本質をキャンバス上に表現することだったと思われる。彼が援用した技術(色彩理論や浮世絵のような輪郭線)は、あくまでも、ものの本質を表現するための手段であり、色や線が独立して新たに違う世界を構成しはじめるわけではない。
だからこそ、このイスが表しているものはあくまでもゴーギャンのイスであり、しかもゴッホの目に映ったとおりの、色彩豊かで思索的なイメージを持ったゴーギャンなのだ。
ゴーギャン《肘掛け椅子のひまわり》
There is a bunch of sunflowers. (ここにヒマワリがあります)
明らかにゴッホの代表作へのオマージュ。このとき、ゴッホはすでにこの世におらず、ゴーギャンはヒマワリの絵を描くために、わざわざフランスからタヒチへヒマワリの種を送らせて、育てたのだという。
ゴーギャンは確かに、目の前にヒマワリを置いてこの絵を描いたのだろう。しかし彼は、目の前のヒマワリの向こうに、ゴッホのあの絵を見ていたはずである。そして窓の外、海で遊ぶ家族連れ(あるいは、窓の外と見せかけて、実は額縁に入った絵かもしれない)。ゴーギャンはタヒチに来てから、最愛の娘の死の知らせを受けた。何人もの現地妻と暮らし、子どもももうけた。だが、理想の家族は夢の中にしか存在しなかったようにも受け取れる。
ゴーギャンは、実際に見たものを素材にして、頭の中で絵を組み立てるタイプの画家だった。現実とうまく折り合えず、理想の何かを求めて頭の中も自分の身体も旅を続け、故郷から遠く離れた地で没した人だった。はたして彼は「ここではないどこか」を見つけたのだろうか。それとも、「ここではないどこか」に恋い焦がれる自分に酔いながら人生を終えたのだろうか。
ゴッホ《グラスに入れた花咲くアーモンドの枝》
濃い絵柄で有名なゴッホだけども、こんなに軽やかで愛らしい作品も残している。
全体にパステル調で、ともすればぼやんとした印象を与えがちな絵に見えるが、花の付き方や枝の描写は素晴らしくリアルだ。さらにすごいのが、横一文字にひかれた、背景の赤い線。このたった一本の線のおかげで、画面がどれほど引き締まっていることか。ゴッホの天才ぶりがよくわかる。
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