またまた祝祭管練習記の更新です。こうやってコンスタントに更新できる幸せ(というか、楽苦しさ)を噛み締めておりますよ。
マエストロ練習、審査会ときて、今回はいつもお世話になっているトレーナーS先生による練習。序幕&1幕の通し+難所の返し。びおらは珍しく控えめな出席率だったけれども、おかげで前方の席に座れて、たいへん弾きやすかった(ポロポロ落ちることに変わりないのだが、周囲の音をよく感じ取れるので一体感を感じやすい)。
毎度のことながら、S先生の指示と解説は明確でわかりやすい。「わかりやすさ」の中には親しみやすさも内包されていて、ぶっちゃけ気味のコメントがツボにはまる。たとえば。
一幕の最初、夜明けの場面では主人公二人がイチャコラしているのだけど、それがほんの一時間後には、悲劇の出会いになっていて「これ、同一人物?」とか、「厳かなシーンをやりましょう」と、ヴァルハラ城が登場するシーンを返したあとに「あんなにヒドい性格でもやっぱり神様て感じがしますね。あれだけメチャクチャなことをしていたけれど、いなくなるとやっぱり寂しい、というパターンですね」などの発言が楽しすぎる。
もうホントにその通りで、あらすじだけ取り出すと荒唐無稽とさえ言える話なのに、付けられている音楽がヤバいくらいカッコいいし、細かく聞けば聞くほど異様な歪みを感じる。
「カミタソ」こと「神々の黄昏」は鬱展開がポイントなのだが、幸せの絶頂と絶望のどん底の対比ときたら鬼畜レベルだ。対比はより大きいほうが効果的という物語づくりの原則をふまえているとしてもやはりヒドい。岩山でのイチャコラシーンと、ほんの一時間後に訪れる最悪の裏切りシーンの対比にしても、ジークフリートの死の場面、夢見心地でブリュンヒルデとの出会いを回想しているジークフリートの背中に、突如槍が突き立てられるところと、その後に続くブリュンヒルデの幻影を見ながら息を引き取るシーンにしても、希望と絶望、夢と現実の落差が大きすぎて、初めて対訳を見ながら聞いた時には息が止まるかと思った。
対比によって幸福と絶望のどちらが強調されているかというと、もちろん後者。幸福は絶望を引き立たせるためのスパイスと言い切っても差し支えはないほどだ。そして絶望が深いほど救済のカタルシスは大きくなるし、ワーグナーの狙いはまさにそれだったんだろうなと思う。
世界を救うために英雄を殺し、その悲劇を大きくするために、思い切り明るい希望の星として英雄を描いた。と考えたらなら、うわぁ、これはヴォータンより非道い所業だなぁ(さすが作者)。
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