つい先日、某公共施設の事務所で仕事をしていたら、いきなり合唱の声が聞こえてきまして。何事かと思ったら受付窓口の斜め向かいにある喫茶店で、本番を終えたばかりの合唱団が打ち上げパーティをしている真っ最中で、余興としてレパートリーの曲(の中でリクエストがあったものかもしれない)を歌い始めたのだった。
誰に聞かせるのでもなく、純粋に自分たちのために歌う声は、本当に楽しそうで、喜びにあふれていて、合唱の本当の楽しさはこういう瞬間にあるのだろうなと感じ入った。仲間の絆を深めるための音楽。また、感情を共有するための音楽。
ちょうど「
音楽の根源にあるもの (平凡社ライブラリー)」を読み終わったばかり。
これは、小泉氏の音楽にかかわるエッセイ・講演・対話をまとめた本。
わらべうたや民謡の採取と分析、東南アジアの奥地に住む少数民族を訪ねるフィールドワーク、日本の音楽状況を語る対談など、西洋音楽を主体とした分析とはまったく違う観点での研究内容が盛りだくさん。
時代の変遷とともに何種類も派生した日本の音階を、テトラコードを使うことで明快に分析してみたり、民族にはひとつの歌しかなかったという大胆な推理が出てきたりして非常に面白い。
特に日本語のアクセントと歌の旋律との関係性の分析が興味深かった。言葉と音楽の関係については、ヨーロッパの言語でももちろん分析が行われているけれど、どんな言語にしても、その言葉が持つアクセント(強弱アクセントや高低アクセント含めて)は、その言葉を母体にして生まれる音楽に非常に影響を与えていることがわかる。例えば、西洋音楽にアウフタクトが多いのはヨーロッパ圏で使われる言語に前置詞があるせいだというし。
特に興味深かったのは、アジアの山奥に少数民族を訪ねる旅。ポリフォニーよりもユニゾンのほうが新しい歌の形態である(つまり個人で活動する社会ではポリフォニーしか存在せず、統制のとれた集団社会でユニゾンが可能となる)という結論が導き出され、、目からいくつ鱗が落ちたことか。共同作業で狩りをする必要がある部族では、作業の際に互いのリズムを合わせる必要があり、そこで同じ歌をうたう必要性が出てくるというわけだ。
しかし、音楽の発生は人の生活音や作業時の掛け声にあるのではなく、実は、日常の労務をあとで振り返り思い出すために仕事歌や労働歌が生まれたのだという。
どんなときに人びとの体験が歌しとして昇華するかというと、寄り合いや祝宴で集まった人びとが自然と即興で伝承や自分の体験を歌い始め、それが延々と一晩中続くような場で生まれるという。(身内で音楽を楽しむこのノリは、東南アジアのみならずアイルランドでも顕著だ)。
こういう場面で生まれた原初の歌は、伝承はもちろん、日常生活や個人的感情の記憶装置であったり、それらを仲間と共有するためのツールだったりする。なんてことはない、今のニコ動やYouTubeも同じ原理で動いている。
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