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びおら弾きの微妙にズレた日々

ハロウィンスペシャルその1 ハイドン楽長の話

この記事は、2007年ハロウィン祭りに合わせて書かれたもので、3つで一組となってます。

一つ目はハイドンの話。古典派の巨匠と言っても差し支えないでしょう。

ハイドンの印象は、ひと言で言うと「音楽職人」。ヨーゼフ・ハイドンが生まれ育った時代、音楽家は芸術家ではなく、職人だった。熟練した職人の手からは、しばしば芸術の域にまで達する名品が作られることがある。ハイドンが生み出した数多くの作品は、当代随一の音楽職人から生まれた名品と言える。

さて、ハイドンの少年時代はいきなり音楽労働者として始まった。ハンガリーに近いドイツの田舎町、ローラウで生まれたが、生まれつき音楽のセンスと美声を持っていたので、親戚に進められ聖歌隊に入ることになった。それが6歳のとき。現代の日本に当てはめたら、小学校に上がるかとうか年齢ですでに親元を離れ、頼れるのは自分ひとりという生活を始めたことになる。
最初の2年はウィーン郊外の街の教会で、それ以後はウィーンの聖シュテファン教会で働くことになる。

決して親から疎まれていたわけではない。逆に、音楽好きできちんとした両親からたっぷりの愛情と躾を受け、実に健やかに育てられた。両親は我が子ヨーゼフを聖歌隊に入れるべきかどうか半年も迷ったという。なにしろ、聖歌隊に入れば、ある程度の教育は保証されるし、才能があればのちのち音楽家として働いてゆける。しかしまだ幼い我が子を独り立ちさせるには不安も大きかっただろう。

聖歌隊に入ったハイドンは、歌の技術や音楽の知識を貪欲に吸収していった。6歳にして写譜の仕事をこなせたというから、もともととびぬけた才能の持ち主だったのだ。
しかし、聖歌隊の基本は労働者。毎日のように教会のミサで歌い、合唱長はじめ、大人たちの雑用をこなし、その合間に勉強をする日々。悪さがばれたり、しくじれば体罰はあたり前。
ハイドン少年は、そんな中でもしたたかにすくすくと育ち、おまけにいたずらの天才だったらしい。ミサの仕事の合間に、ウィーン郊外で建設中のシェーンブルン宮殿で仲間と鬼ごっこをし、ついには視察中の女帝マリア・テレジアじきじきにお叱りを受けたとか。

成長して変声期を迎えたハイドンは、合唱隊を追い出され、(どうやら、いっときはカストラートにならないかと合唱長から誘われたらしいが、それを知った実の父に引き止められた)しばらくは流しの楽団に加わって何とか食いぶちを稼いだ。親元に帰ろうと思えば帰れただろうが、あくまで音楽を続けたかったハイドンは、聖歌隊時代に習ったバイオリンの腕を生かして仕事をし、空いた時間には作曲の勉強をする生活を選びとった。それが10代後半から20代前半のこと。

やがて各地で貴族や有力な音楽家に認められたハイドンは、麦わら長者式に出世して、とうとう貴族のお抱え楽団の楽長職につく。彼の勤め先はエステルハージ侯爵家といって、ハンガリー地方をまとめる有力貴族。当時の財力はハプスブルグ家に匹敵するほどだったという。音楽への愛着が同家に匹敵したのは言うまでも無い。

こうして、宮廷楽団の長としてハイドンは輝かしい生活を始めるのだが、たんねんに彼の足跡をたどれば、ほとんどの幸運は彼みずから招き寄せたものだったのがわかる。もともと優れた才能をもっていただけでなく、性格は誠実で楽天的、体は丈夫で、逆境に非常に強かった。母の躾のおかげで、身なりを整えたり、身の回りをきちんとしておく習慣がついていて、それで貴族との付き合いもうまくいったし、長年他人の中で生きてきた経験で、人付き合いのコツも自然と身についていた。
そんな彼は人を見る目を誤ることはほとんどなかったが、悲しいかな、結婚相手を決めるときにはその勘が働かなかったらしい。まあ、本命さんが修道院に入ってしまったからには、ある意味どうでも良かったのかもしれないけれど、それでもねぇ……。

楽長の仕事は、実に多忙なものだった。楽団のマネージャーとトレーナーを兼ね、専属作曲家の仕事も果たし(侯爵の注文に応じて室内楽からオペラまで!)、侯爵が季節ごとに居城を移動すれば、それについていく。

オーディオ機器などいっさいなかった当時、音楽を楽しむ方法は、人に演奏してもらうか、自分で演奏するかしかなかった。というわけで、お金持ちの貴族は大なり小なり楽団を雇い、食事やパーティのたびに演奏させる。また、何かの楽器ができるのは貴族のたしなみで、玄人はだしの貴族が楽士たちといっしょに合奏することもしばしばだった。
そういった場で求められるのは新鮮で気持ちの良い音楽。あるいは「うちの楽団はこんなに素晴らしい人材がいる」と他の貴族に自慢するための音楽。ハイドンは、主の求めに応じて次から次へと曲を書いていった。いわば「使い捨て」を前提とした音楽だ。

そんなこんなで人望厚い楽長は大忙しで、静かな早朝を作曲の時間に充てたというが、それでも時には眠りながら作曲するという離れ業を身に付けたとか!
ハイドンは毎朝神に祈るところから作曲を始めた。そして五線譜を前にしばらく神経を集中させるとメロディが降りてくる。あとは作曲の作法に従い、アレンジしながら曲を組み立てればいい。
毎朝、必ずメロディが降りてくる/湧いてくるというのが凄い。さらに信心深いハイドンは、必ず完成作品の最後に神への献辞をのせた。

ハイドンの音楽には、いつも清澄なひびきがある。それは、侯爵を楽しませる優美で美しい音楽が求められていたためでもあるし、何より、ハイドン自身、音楽は美しく心を慰めるものでなくてはならないと信じていたからだ。
ハイドンの時代はまだ、音楽に人間の苦悩や生々しい感情を露骨に乗せることはしなかったのだ。
音楽に深い苦悩と壮大な希望をのせ、革命を起こしたのは、ハイドンにとっては変わり者の扱いにくい弟子、ベートーベンだった。

※この記事は、ひのまどか著「ハイドン―使い捨て音楽と芸術音楽」を参考にしてます。

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