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びおら弾きの微妙にズレた日々

交響曲第四番・ブラームスに打ちのめされた話

秋はなぜだかブラームス。優雅だから? いえいえ、とんでもない、ブラームスに紅茶とケーキは間違っても似合いません。お茶が渋くなりすぎます。やがて来る冬を予感させるわびしさと、輝かしかった夏の思い出をしのぶ情感を併せ持つ独特の哀感がぴったり来るのです。
 ブラームスは、4番目の交響曲において、手法的に古典へと回帰しました。もちろん、「昔は良かった」と言うためではありません。彼は、形式を遵守しつつも、驚くほど奔放に曲想や主題を取り扱ったのです。古典を取り入れながら、それを超えようとしていたのかもしれません。
 その結果、4番は特に、「老練な」という形容がぴったりの曲の構成になりました。第2楽章の教会風な主題しかり、第4楽章で用いたパッサカリア形式しかり。
 第2楽章における教会風の旋律は、聞く者を過去の美しい幻影へと誘い込みます。今では手を触れることのできない、憧れにも似た美しい思い出へと。それは失われた青春を悼んでいるのか、アダムとイブの楽園を思っているのか、定かではなく。
 第4楽章で使用されている形式は、シャコンヌとも言われる古い変奏曲形式の一つです。これは一つのテーマをもとに、きっちり8小説ごとに変奏を繰り返すものです。ブラームスの場合、一つ一つの変奏を無機質かつ機械的に展開してゆくのではなく、重厚かつうねるような音の連なりをいくつも生み出していきます。一時的に盛り上がる情熱は、結局解消されずにおさまって次の変奏へと移り続け、楽章全体としては抑圧的で独特の暗い響きに支配されています。そして最後の激しいフィナーレ。あたかも厳格な形式の網の目から彼の思いが滲み出てくるようです。

 この曲全般に込められた思いは、ほとんど怨念に近い物があるはずです。言い換えれば、内側に向かう激しい情熱。その中には決して成就することのなかった、クララ・シューマンへの思いがありますし、(彼は敬愛する師・シューマンの奥方を慕えこそすれ、手を出すほどの破廉恥さは持ち合わせていませんでした)芸術面からしても、いわゆる現代音楽が生まれようとしている時期で、ブラームスの目指す音楽的方向性は時代の潮流から取り残されつつあったという歯がゆさがあったことでしょう。それでも彼はかたくなに自分の音楽性を保ち続けました。そして彼にしか成しえない傑作が生まれました。

 かつて、この4番に苦しめられたことがあります。当時の私は学生オケに入って2年目の秋を迎えていました。音程もろくに定まらない腕前で、無謀にもブラームスの交響曲に挑戦することになりました。しかも4番。やれ、リズムがずれる、ピッチが合わない、などという苦痛な練習が毎日のように続きました。

 ブラームスの交響曲はどれをとっても技術的に難しいものです。少なくとも学生オケにとっては。しかし4番は特別でした。何が問題だったかというと、この曲に込められた「怨念」が再現できなければ、この曲の本当の味わいが出ない、ということにあります。
 二十歳そこそこの若造の集団に、海千山千のたぬき親父(!)の最後の交響曲が演奏しきれるものでしょうか……? 残酷なようだけれども、答えは限りなく否に近いでしょう。それでも私達は悪あがきをして、少なからぬ団員がトラウマを負いました。

  あれから時が経ち、ようやくブラームスの片鱗が理解できる年になったころ、再び4番と衝撃的な出会いをしました。今度は演奏を聞く側にたっての体験です。
 その時演奏していたのは、有名な外国のオーケストラなどではなく、私がかつて所属していたアマチュアの市民オーケストラ。その定期演奏会でした。
 一楽章の冒頭を聞いた瞬間に「やられた!」と思いました。前奏なしでいきなり第一主題が始まるのですが、下降音形で主題を奏でるバイオリンと裏打ちをする木管楽器群、さらに上昇音形のアルペジオで伴奏するチェロ―ビオラの組み合わせが絶妙で、いきなり奈落の底に突き落とされたような錯覚をおこしました。あたかも、避けられない悲痛な運命をいきなり突きつけられた気がしたのです。

 あとはもう、坂道を転がり落ちるがごとく、ブラームスの世界に引きずり込まれてゆくばかり。多少ピッチがずれようとも、トランペットの音が浮いていようと、不思議とブラームスの本質は損なわれていませんでした。時代は世紀末、新しい思想や手法がもてはやされ、古い物が忘れ去られる中、古い側に荷担し、ともに滅びてゆくことを良しとする悲壮な決意の表明……。

 これは、指揮者の腕もさることながら、演奏メンバーの中に酸いも甘いもかみ分けてきた年代の人間が多くいたせいでしょうか。
 演奏終了直後、私と友人はろくにものも言えず、ただ「疲れたね……」と言って別れたのでした。
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