三連休の初日、ダンナ氏と軽くドライブに出かけるつもりで家を出たらなぜか県境を超え、静岡にいた。静岡県立美術館で開催中の「1968年 激動の時代の芸術」展を見るためだ。
しかし、静岡に来たならまずは寄っておきたいところがある。「さわやかハンバーグ」。静岡では有名なチェーン店だというのだが、愛知進出はいまだならず、一度は名物の「げんこつハンバーグ」を食べてみたいと思っていたところ。
美術館の前に腹ごしらえをと、インターを下りてさっそく最寄り店を検索するも……不慣れな土地でグーグル先生があまり頼りにならず無駄にさまよう羽目に。
その間、静岡駅前を通り、駿府城跡&県庁の脇を通り、あ、静岡って意外に(失礼)歴史のある都会だわ、と知ったのだった。
その後、ずいぶんと遅い時間になったが無事におにぎりハンバーグにありつき、ほどよくお腹が満たされたところで、いざ美術館へ(ようやく前振り終了)。
美術館があるエリアは、図書館や県立大学ともセットになっていて、園内の木々はずいぶん年季が入っている。おそらく周辺一体が県有地であり、さらに遡ると地域の豪族の土地ではなかったのか、という印象を受けた(よく考えれば今川氏のお膝元だ)。
美術館の印象は、堅牢でなおかつ空間を贅沢に使っているなという感じ。非日常の世界を体感するにはちょうどよい。建物は1986年に開館したというから、ちょうどバブルの真っ只中、日本のあちこちで箱モノが作れらた時代だ。
さて、目的の「1968年」展はどうだったかというと、いきなり戦う学生たちの写真から始まって、ああそういうことね、と腑に落ちた。続いてテーマ別に構成された展示物が続々と紹介される。作品数も多く、過激でエキセントリックな、当時のアングラ文化の空気感がわかりやすく示されていた。
ちなみに1968年というのは大学闘争まっさかりで、キャンパスで火炎瓶が飛んだり、反戦運動が盛んに行われたりしており、その勢いを受けて文化芸術方面でも古い価値観を打ち破る試みが続々と行われていたころ。
以前の記事で紹介したハイレッド・センターが活動し、メンバーの赤瀬川原平が「千円札裁判」を起こしたのがその少し前(裁判の資料もたっぷり展示されていて、これは大変に興味深かった)。
資料や作品を見るにつけ、まさに破壊の季節としか言いようがなくなった。エネルギーを持て余した若者が既成の価値観や権威に抵抗しまくり、目に映るもの、手に触れるものすべてに牙を向いた時代。もちろん既成概念の破壊活動は日本だけでなく、世界のあちこちであったし(例えば19世紀末ヨーロッパにおける表現主義とか分離派とか蒼騎士グループとか)、破壊の跡から新しい思想、新しい芸術文化の流れが生まれることもある。
たとえば「環境芸術」は現在でいうインスタレーションの初期の形態だし、劇画表現はコミックブームの先駆けだ。でも全体として破壊の嵐の後には何が残ったのだろう。
「影」を撮影することで人の不在を強調する作品があったけれど、それに近いものを感じる。さんざん実体を壊した後に「影」だけが残り、そこに真実があると思い込む若者たちの姿が見えた気がした。そしてエログロナンセンスにも通じる露悪的な表現。あれは当時の若者たちの自画像だったんだろうな。当時の若者はすでに70代。彼らは今も影を追っているのだろうか。
少々疲れを感じながら企画展会場を後にし、次に向かったのがこの県美の華でもある「ロダン館」。そこで展示されているのはすべてロダン作品! 真正面にかの有名な「地獄の門」。門の前にはダンテ「神曲」で書かれている地獄の門の一節と各種翻訳文!(英訳一種、日本語訳4種)眼福にもほどがある。
※地獄の門の訳文、漱石先生のバージョンです。
憂いの国に行かんとするものは此門を潜れ。
永劫の呵責に遭はんとするものは此門をくゞれ。
迷惑の人と伍せんとするものは此門をくゞれ。
正義は高き主を動かし、神威は、最上智は、最初愛は、われを作る。
我が前に物なし只無窮あり我は無窮に忍ぶものなり。
此門を過ぎんとするものは一切の望を捨てよ。
他に森鴎外、上田敏、荒俣宏による訳文あり。実に贅沢な詰め合わせです。
広々とした立体的な空間に点在するロダンの彫刻たち。彼らの姿には生きることの苦悩と人としての尊厳と生命力が宿っていて、同じ裸体でも、アングラ作品に登場するそれとは方向性が真逆だなあと感じたのだった。
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