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びおら弾きの微妙にズレた日々(再)

音楽・アート(たまにアニメ)に関わる由無し事を地層のように積み上げてきたブログです。

   

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風にもモーツァルト?

昨日の昼過ぎから、なんとなくのどが痛いなーと思っていたらいたら、あれよあれよという間に痛みが増して、すっかり腫れてしまい、悪寒までしてきた。風邪だ~。
今日は一日ぐうたらを決め込んで、本を読んだりパソコンで物書きしていたり(実はいつもとあまり変わらない生活)していて、ふと音楽が聴きたくなった。

体調が良くないときに、大音量のシンフォニーもなんだかなーと思い、手を伸ばしたのがモーツァルトだった。
ある程度規則的なリズムが刻まれていて、不協和音が少なくて、ppからいきなりffへ音量が飛んだりしないものを、と考えた結果だ。
あちこちで、モーツァルトを聞くと頭がよくなるとかリラックスできるとか、まるで健康食品のごとく宣伝されているものだから、かえって普段は敬遠してしまうのだが、今日は素直に聴いて見る気になった。

以前どこかで読んだけど(たぶん小林秀雄の「モーツァルト」)、この天才作曲家は言葉の代わりに音で自分の感情をつづったらしい。言葉で「楽しい」と書く代わりに、楽しいフレーズを書く。
だから、音の流れを、普段会話するときに感じる感情の流れに置き換えて見ると、あら不思議、曲の雰囲気がすごくリアルに感じられる。
すごく卑近な例だけど、スーパーでばったり出会った幼稚園ママ同士の会話をイメージさせる楽章もあったりして、(例えば29番の2楽章) それはそれで結構面白い。
そして一度曲の流れに乗れたら、あとは何も考えずにモーツァルトの描く世界を楽しむ。

うん、風邪は治らないかもしれないけど、頭の中は癒されるな。
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耳虫パート2

以前、このブログで「耳虫」なるものについて書いた。
あれから我が家では「耳虫」という言葉が定着して、最近では娘が「ソーラン節が耳虫になって困る」と言う。運動会で踊る曲だ。さもありなん。

自分の場合では、最近ちょっと意外に思った耳虫がある。
シューベルトのアルペジョーネソナタ。
万博が終わった翌日、閉幕の様子を流すテレビを見ながら、あるいは前日までのにぎやかな会場を思いながら、頭の中ではずっとアルペジョーネの1楽章が鳴りつづけていた。
この曲、確かに物寂しげな雰囲気があるものの、何かの終幕を表現したような曲ではない。
なのに、自動的に頭の中を繰り返し流れるのだ。

思い当たる理由が一つある。
この曲を集中的に聴いていた時期と、自分の中で何かが終わった時期が重なっていたという可能性だ。
たとえば、悲しい出来事があったときにある曲(どんな曲想でもよい)を頻繁に聞いたとする。すると、次に悲しい出来事があったときに、やはりその曲が頭の中に聞こえてくるのではないか、つまりパブロフの犬みたいなものである。

何かが終わった時期ねぇ。

……。

うーん、まだ痛くて文字に乗せることができないかも。

11月の曲なのに蝉の声がよく似合う

現代曲ついでに、武満徹「ノウ゜ェンバーステップス」の感想を。

これを最初に聞いたのは、8月の暑いさなかだった。静まりかえっているはずの部屋でCDを鳴らした。
管弦楽による演奏の部分を過ぎて、尺八と琵琶の二重奏の部分に入る。ところが、そこにアブラゼミの声が加わって、3重奏に聞こえるのだ。まるで違和感がないことに驚いた。それどころか「閑さや岩に染みいる蝉の声」の世界が立ち上る。
半分キツネにつままれたような気持ちで、あとの半分は心底凄い音楽だと思った。

次に聞いたのは9月。もう蝉の声はない。
すると、先日聞いたのと同じ箇所が、まるで違う印象で聞こえた。今度は寒々とした11月の景色が見える。
これで本当にノヴェンバーステップス、11月の梯子だ。
8月に見えたのは何だったんだろう。

ところで作曲者いわく、西洋音楽は横に流れ、日本の音楽は縦に動くという。両者を無理に融合させようとしても駄目で、むしろ対立させた方が互いに引き立つらしい。
そこではっと気が付いた。
だから日本の弦楽器は、琵琶だの三味線だの琴だの、はじくタイプばかりで、胡弓みたいに弓でこすって音を出すタイプはないのか。(←一人で勝手に納得)

アコーディオンとビオラ

気が付くと、前の書き込みから一ヶ月以上空いている。その間何も話題がなかったわけではないが、現世の出来事にかまけて、うっかりご無沙汰。

少し前、面白いCDを手に入れた。→

ビオラとアコーディオンのデュオだ。意外な組み合わせだが、決してなじまないわけではない。
むしろ伴奏系同士、よく似た雰囲気を持つのではないかと思う。

このデュオが取り上げているのは、主に日本人が作曲した現代曲。「ビオラのために」ということで、渋めの響きが出るようになっている。
メロディらしいメロディはなく、かといって耳障りな音でもなく、音の重なりや音色のバリエーションを聴かせる曲が多い。
こういう曲を聴いていると、現代美術を見ている時と同じような感覚がしてくる。

ビオラが渋い音色だというのは当然として、アコーディオンの音色の良さも発見した。
アコーディオンは鍵盤楽器のように見えて、実は空気でリードを鳴らす楽器(オルガンもそうだけど)だから、よく聞いてみると、笙(しょう)とか、バグパイプに近い音がする。 ちょっとひなびた音色を出す仲間だ。 この楽器で現代曲をやると、新鮮ですごくいい感じ。

カーラジオでドボ8と出合った話

8月3日のこと、朝、銀行へ行くために車を走らせていたら、ドボルザークの交響曲8番が聞こえてきた。
始めに3楽章のしっぽがちらりと聞こえてきた時点で「もしかして…」と思い、4楽章出だしのファンファーレで確定した。
この曲は、学生オケを卒団後、はじめてOBとしてエキストラに呼ばれた時に弾いた曲だった。
この時にビオラトップをやっていたのが相当に面白い子で、3楽章の最後にリズムと音の変わり目が微妙にややこしいところがあるのだが、そこに歌詞をつけて歌えるようにしてくれた。
どんな歌詞かというと…
「しろやぎさんからおてがみついたくろやぎさんたらよまずにたべた」
一度見たら忘れませんとも。

そんな他愛もないことを思い出しつつ、また、当時ファンファーレを吹いたトランペットの子は今頃どうしているんだろうとか、4楽章に聞き入っていたら驚いた。
中間部が泥臭くない! 少なくとも日本のまつり囃子調ではない。
どんどんひゃらら、と浮かれた雰囲気ではなく、ちょっと遅めのテンポでどっしりと進めている。
すると、新鮮な印象を受けるのだ。それまで西洋音楽のしきたりにのっとって進んできた曲の中に、東欧の民俗音楽が混じる。一歩間違えれば泥臭くなるところがエキゾチックな雰囲気に仕上がっている。そのモチーフがひとしきり展開されたあと、無理なく冒頭のテーマへと戻っていくあたり、この作曲家すごい、と思わされた。

ドボルザークは今でこそ交響曲の9番や8番が有名になって、交響曲に民俗音楽を取り入れた作曲家として有名だけど、もともとはそんなに泥臭い曲を書く人ではなかったようだ。
初期の4番などは、すごく透明感があって、「え、これがドボルザーク?」と驚くほどなのだ。
恐らく、彼はそれまでの西洋音楽に飽き足らなくなって、新しい刺激として民俗音楽を自分の曲に組み込む方向に進んだのではないか、そう考えると、いっそう9番や8番のシンフォニーが面白くなる。

今月のつぶやき

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