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びおら弾きの微妙にズレた日々

市内最果ての地

最近、ダンナ氏のMTB熱が再燃しまして。
そのきっかけとなったのが、この秋、市内北部に開設されたオフロード用コース。


もともと自然豊かな土地だけども、その中でもさらにワイルドかつ開発の手が及んでいない広大な地域があって(僻地ともいう)、そこに目をつけたオフロードバイク専門店が山中を造成して思う存分走り回れるようにした。バイクとマウンテンバイク用に、それぞれ専用コースがある。

MTB用の山中コースはまだ整備中とのことで、現在使えるのは土がむき出しのダートコースのみ。大きなコブに連続する急なカーブなどなど、難易度高そうだけど、何人もの人が転びもせず器用に降りてくる。見るからに足腰や体感筋肉の強さ、しなやかさが要求されそう。見るのは面白いが、やれと言われたら逃げるが勝ち。



こちらはバイク用の山中コースで、泥だらけのオフロードバイクがエンジン音高らかに走り去ってゆく。山の中を無造作に切り開いた感ありありだけども、雪が積もればそのまんまクロスカントリースキーができそうだ。




「けが人は出ないの?」とダンナ氏に聞いたら、「バイクのコースでは毎週誰かが骨を折っているらしい」と。見ればライダーは皆、ヘルメットはもちろん、全身甲冑みたいな防具で固めている。自然の地形と戯れ、難しい道を制覇するのがよほど楽しいんだろうな。

でも、元から山に生えていた椿やクヌギの木などは結構迷惑そう(^^;)
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オバケの季節カモーン

知り合いの若い子に英語を教えたら、お礼にハロウィーン仕様のお菓子詰め合わせをもらった。
オバケだらけというのが非常にツボったので写真に撮って保存。


実はこれ、スーパーに入っている贈答用のお菓子コーナーにたくさん並んでいる。だからといって贈り物の価値が落ちるわけではない。
店の棚に並んでいる時はお手軽なみやげ物でしかないけれど、ある人がある気持ちを表すために手に入れたなら、それは特別な品へと変化する。こうして写真に撮って飾ったらなおさらだ。


「代用コーヒー」飲んでみました

先週出かけたミレー展、おみやげコーナーには北フランスに関係のある食べ物も置いてあり、高いとわかっていながらつい手を出してしまった。それはジャムでもクッキーでもなく、大麦を炒った「代用コーヒー」。
麦コーヒーは、代用コーヒーとして永年ヨーロッパの国々で広く飲まれてきました。風味を増すために原材料にコーヒーをブレンドしてあります。古き日の素朴な風味をお楽しみ下さい。(コーヒーのパック裏面より)

とのことで、風味付けにモノホンのコーヒーを混ぜているくらいなので、決して「美味しい!」と感激するような味ではなかろうと思いつつ、好奇心が勝って購入。
ミレーが生きた19世紀中頃のヨーロッパを考えてみよう。本物のコーヒー豆は、はるか南方の国々から船で運ばれてきた貴重品であり、手軽に家庭で飲めるような代物ではなかったはず。wikiには次のような記述がある。
代用コーヒーについての最古の記録はフリードリヒ2世統治下のプロイセンで見られ、コーヒー豆の輸入による輸入超過と国内ビール産業の保護を目的とした1777年のビール・コーヒー条例によってコーヒーに高い関税が掛けられることになった結果、その代用として庶民が代用品を飲む様になったと記されている。また、南北戦争中の米国や、第一次・第二次世界大戦の時にコーヒー豆の輸入が滞った地域(日本など)や、冷戦時の東欧諸国でも代用コーヒーが飲まれた。

代用コーヒーの材料としては、タンポポやチコリなどの根、ブドウやカボチャなどの種、種大豆、トウモロコシ、大麦などの穀物があり、地域によって利用しやすいものを炒って使ったのだろう。ミレーの生まれ育った北フランスでは大麦を使った代用コーヒーが飲用されていたということで。

麦コーヒー カフェ・オ・レ風


微妙な期待を持ちつつ、パックを開けてみると、いい匂いがする。大麦はもともと炒ると独特の香ばしい香りを放つから、まあ当然だろう。問題はお湯を注いでどうなるか。

色はまずまず。きれいなブラック(表面に浮く粉が気になるけど)。香りは残念ながら弱くなる。味は……。

味は人それぞれ好みがあるので、いいとか悪いとかはっきり言えないが、ブラックで飲む場合はコーヒー色の白湯だと思っていただくのが無難かなぁ。ミルクや砂糖を加えるとヘルシーなホットドリンクになる。


現代は輸入物のコーヒー豆を家庭でガリガリ挽いて、手軽に本物を味わうことができるのだから、実に贅沢な時代だよねぇ。

何だかアレな入学説明会

先日、我が家のお嬢さんが晴れて第一志望の大学に合格した。合格発表を見に行ったついでに、大学生協が主催する「入学説明会」なるものに出てみた。主催が大学でなく「大学生協」というのがミソ。
入学のための各種手続き、提出書類に関しては後日届く合格通知に同封されているので、それをよく読み、記入し、とじ込みの振込用紙で入学金を振り込めばよい。(諭吉さん、さようなら)
では、何のための入学説明会か?

シミュレーションと現実の間

ひとつ前の記事の続き。

先日の泥縄事件で思ったのだが、案外と仕事というのは、ある日突然降ってきた課題に対し、手探りで対応策を考えながら力をつけてゆくものかもしれないと感じた。練習環境でいくらシミュレーションをやろうが、現場でないと獲得できないスキルがあるし、現場で「こういう情報が欲しかったのよ」と実感するところから新たな知識を吸収していくとかね。

例えば、いくら翻訳講座で添削を受けようと、それは世に出す文章ではなく、本人と講師の目にしか触れることがない。ある意味内輪のやりとりなので、訳文は「わたし、これだけ頑張りました」と言えるレベルであればそこそこ良い評価がもらえる。そこから先に進まなくてもOK。
しかし、仕事であれば、それがどんなにマイナーに印刷物であっても、公の目に触れるものだ。その仕上がりについては、まったく別次元の話になる。外国語を翻訳したものであろうとなかろうと、読む人にとっては同じようにごく普通の日本語なわけだから、評価は自然とシビアになる。訳出する時点でどれだけ頑張ろうが少しでも翻訳調臭さが出た文章はとても浮いて見えるし、悪目立ちする。練習と本番の違い、とでも言おうか。その溝の深さに気づいた時はもう愕然として、穴を掘って隠れたくなった。

それ以降、どうすれば最初から日本語で書かれたように見える文章として訳し上げることができるか、を意識するようになったけれど、この感覚は、実際に経験してみないとわからない気がする。


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