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びおら弾きの微妙にズレた日々(再)

音楽・アート(たまにアニメ)に関わる由無し事を地層のように積み上げてきたブログです。

   
カテゴリー「音楽の話」の記事一覧

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耳虫ってなんだ?

時々、何の前触れもなく頭の中がある曲に占領されることがある。
それはCMソングだったり、ラジオでしょっちゅう流れてくるポップスだったり、もちろんオケ曲の一節だったりもするのだけど、一度取り憑かれようものなら、延々同じフレーズが頭の中で回り続け、「誰か止めて~!」な状態になる。
そういうフレーズを「耳虫」というのだと、先日テレビでやっていた。

でも、ネットの検索に「耳虫」をかけてみても、そう言う意味での使用例はほとんど出てこない。
それもそのはず、ある現代芸術家が作り出した言葉なのだから。
残念ながら、どこの国のどんな名前の人なのか覚えていない。
でもこのネーミングは言い得て妙だと思う。

で、ここ数日の耳虫は、R.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」なのだ。
独立した23の弦楽器パート(つまり23人の弦楽器奏者がいて、一人一パートの世界)で演奏されるこの曲は、第二次世界大戦で失われたドイツ文化に対する葬送曲であり、モチーフとして、ベートーベンの「英雄」の葬送行進曲が使われている。
葬送曲といっても公に依頼されて作られたものでなく、あくまでもシュトラウス本人が己の悲しみを表すために書いた曲である。
もとから好きな曲ではあるが、テーマが重いのと、あまりに大切にしているため、滅多に聴けるものではない。
それが不意に頭の中で繰り返し流れ始める。心当たりは何もないが、ひょっとすると意識の奥底で何かおこっているのかもしれない。

耳虫を退治するには、実際にその曲を聴くのが効果的。
ということで、メタモルを相手にいろいろ考えてみよう。
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というわけで

ちょっと真面目に、丁寧にビオラをさらい始めた。
その気になると本当に細かいところまで気になる。
例えばいつも決まった場所で音程が合わないとか、弦を移るときに音が濁るとか、ほんの一瞬のことなんだけど、そういうところがきちんと弾けないと、全体を通して聞いたときにクリアに聞こえない。
ところが、その一瞬の濁りを取り除くには、指がとなりの弦に触れないように動かなければならず、そのためにはこれまた面倒な訓練がいる。
以前、ビオラの先生についていたとき、セブシック(という教則本)を使って、ちまちまと退屈な練習をした。同じような音型で、少しずつ指の開き方のパターンを変えながら、スムーズに正確な音程で音が出せるようにする。練習というより、指の訓練。正直言ってかなりつまらない練習だ。
もちろん習ったのはそういうことばかりではないけど、正確でクリアな音を出すためにはセブシックでの練習が、とても大切だったのだと今ごろ身に染みる。
運動選手で言えば、基礎体力作りにあたるんだろう。

売られた花嫁はどうしてそんなに駆け足なのか-2

昨日、改めて「売られた花嫁」序曲を聴いた。
やっぱり早いよ。(T_T)
ある程度弾いてから聴くと、その早さがいかに人間離れしているか身に染みて分かる。
クリーヴランド管弦楽団といえども、あまりの早さにやけくそになって弾いているかのように聞こえる。
しかし、この早さがコミカルな味を出しているのも事実で。
(こんなのアマオケに弾かせるなよー、と虚しく叫んでみる)
それで、いったい「売られた花嫁」とはどんなオペラなのかと調べてみた。

モーツァルトは本当に効くのか

先日、音楽療法の話題を読んで、ひょっしたら本当に効果あるのかも。と思ったモーツァルト

自分の場合は、何らかの効果を期待するというより、音楽そのものに興味があって聴くので、モーツァルトで頭の回転がよくなったとか、リラックスできたとかはあまり感じたことがない。

ところが、昨日のこと。
娘が、計算の宿題をひろげながら生意気にも「なにか音楽かけて。その方がはかどるから」と言う。
さすがに「はげ山の一夜」を流すわけにもいかないので、無難なところでモーツァルトのシンフォニーが登場した。
すると、本当に早く片づいたのである。
調子に乗って今日も同じ曲を鳴らしてやると、やはりスムーズに計算が進んだ。うーむ。
自己暗示を差し引いたとしても、多少の効果はあるのか。
私が物語を書くときには、音楽はかえって邪魔になるので、なるべく鳴らさないようにしているのに。

でもよーく昔を思い出してみると、自分も数学の宿題を片付ける時には、よくオフコースのカセットを鳴らしていたなぁ。(照)

田園にいる夢の続き

今朝、息子を幼稚園へ送ったついでに、買い物をしようとスーパーに寄った。が、まだ開店時間前で、20分の暇。
何をしようか考えるまでもなく、車のカセットデッキに田園を放り込んで聴く。エンジンを止めているし、一種の密室状態なので、なかなか快適に聴ける(寒さを忘れれば)

窓の外をのんびり眺めながら田園の2楽章を聴いていると、風景のBGMとして最高。
ええ、まさに「田園」で暮らしてますから。(苦笑)

それで思ったのが、やっぱり2楽章ってオール伴奏なのか? ということ。
先日の記事(1月20日)で書いたとおり、2楽章には、目立つ主旋律がない瞬間が何度もある。木管とバイオリンは合いの手、中~低弦はひたすらアルペジオ、という場面だ。

風景を見ながら、何となくピンときた。
そうか、これは田舎田園の風景を眺めている人が主役で、楽器はあくまで伴奏なんだ。ということが。
のどかな風景を彷彿とさせるモチーフをちりばめることによって、聴き手がまるで本当に自然の風に吹かれているような心地にさせる仕組みじゃないのかと。
木管群は鳥の鳴き声で、弦楽器は風や木々のそよぐ音。主役は聴き手本人だ。
最後のダメ押しがラスト10小節あまりの、カッコウやナイチンゲールの鳴き声。(スコアを見ると、その部分には本当に鳥の名前が書き込まれている)

この曲が運命と同時期に書かれたなんて信じられない。

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